70年のあゆみ-品質管理

(1)製品品質のみ重視偏重 【1989(平成1)年~】 《品質重視》

 材料を加工して製品を作る際、当時の合否判定として製品とサンプル(または限度見本)とを比較して同等以上であれば合格としていた。最終製品である納入品については、得意先に不良品を納入させないということに重点を置いていた。製品の品質を追求していた時代であった。
 各自動車メーカーは乗員の安全を確保しつつ、燃費向上のための軽量化を図るために強くて軽い理想的な材料(ハイテン材、高張力鋼板)を使用していた。今までとは違う材料に戸惑い、不良が多発していた。
 得意先からの不良情報に関しては、その都度不良対策会議を実施して暫定対策を行っていた。
 得意先が増加し得意先からの要求や要望が多様化すると、当社ではそれらに対応出来る術(すべ)が十分ではなかった。
 得意先からの要求や要望というのは「異常が発生した場合の処理基準を定めなさい」、「量産初期の品質不良を無くすための特別品質保証体制を敷きなさい」。といった不良を未然に防ぐ体制作りを行うものであった。一方当社では不良が発生すると恒久対策に及ばず、暫定対策ばかりしていたというのが実状であった。言ってみれば「もぐらたたき」的な活動をしていた。
 それらを打破するために、深井製作所として品質保証体制の構築に向けての大きな一歩を歩み出した頃であった。この時代の話題と言えば、圧造職場では穴をたくさん開ける自動車の車体部品において、プレス成形工程での工程モレを確認するために木型で穴確認用の検査器具を作成した。又、組立職場では打点カウンター・高さ検知・シャッターの3点セットを組み合わせてオリジナルポカヨケを完成させた。このような発想も生まれ、今から見れば治具の始まりであった。
溶接風景

(4)品質向上活動が経営計画の一本の柱となる 【1982(昭和57)年~】 《昭和の品質管理》

 1979(昭和54)年に第二次石油ショックが発生した。更に日本自動車工業各社が輸出の拡大及び現地生産拠点への工場進出の最中であり、国際競争力強化はどのメーカーにとっても合い言葉となって企業力向上に必死であった。
 富士重工業が「R計画」(Rebuild)として協力工場21社に呼びかけたのがこの頃であった。この企業体力強化運動の柱は生産性向上活動であり、その一角に品質向上活動がハッキリ明示されていた。
社内教育計画の中に於いてもIEと並んでQCという文字が見られるようになり、企業体力強化には欠かせない位置を占めてきた。
 そして1984(昭和59)年に品質保証部と格上げされ、その後の富士重工業主導の「Q-UP作戦」にも強力に追従できる体制が整った。
プレス品を目視する作業者

(3)検査から品質管理への転換 【1971(昭和46)年~】 《昭和の品質管理》

 戦後の廃墟から立ち上がり家電業界や自動車産業を中心に高度経済成長時代が到来し、海外への輸出が急成長を遂げ始めたのは1955(昭和30)年後半の頃でした。更に1965(昭和40)年には国内でマイカーブームが始まり、同じ頃完成車輸入自由化という一大事も起こりました。  
 戦後アメリカから「統計的品質管理」が持ち込まれ、日本国内でもこの手法の研究が進められたのはその後間もなくでした。
 更に「全社的品質管理TQC」として日本中の主要企業において広がり始め、QCサークル活動などを含めた「日本的品質管理」として、欧米の「統計的品質管理」と一線を画すようになったのは1975(昭和50)年に入ってからのようであった。これら一連の品質管理に対する傾注が日本企業・日本製品の信頼向上に寄与し、海外への輸出拡大から更には世界中に生産拠点を広げて行くことにつながった。
 当社の組織の中に品質管理課という課名が見えたのは1971(昭和46)年のことであった。そして小集団活動グループが結成されQCサークル活動が活発となったのは、昭和50年代に入ってからのことであった。

(2)検査課への格上げ 【1966(昭和41)年~】 《昭和の品質管理》

 深井製作所の規模はモータリゼーションの波に乗って年を追う毎に拡大していき、この頃には富士重工業のスバル1000や軽貨サンバーなどに加えて、プリンス自動車工業(現日産自動車)のスカイラインやグロリア等の主要部品も受注拡大されていた。
 量の拡大・設備の増強・人員の増加などもあって、この時期に従来の検査係から検査課へと昇格して体制の強化が図られるようになった。既にこの時創業時の山辺工場から御厨工場に移転していた時であり、従業員も300名を超す規模となっており検査課長の下には係長が2名配置されていた。

(1)検査という職務の成り立ち 【1963(昭和38)年~】 《昭和の品質管理》

 20年前に発行された社史「深井製作所50年史」によれば、組織図の中に『検査係』として定め品質に関する仕事が明確に示されたのは1963(昭和38)年のようであった。
 1950(昭和25)年頃より量産化が始まった富士産業(現富士重工業)のスクーター愛称ラビット号の、特に燃料タンクとマフラーの受注は検査が欠かせないものであった。製造工程で行われていた検査作業は生産量の増加と共に専任化の必要性が生じ、製品の性格上全数品質の確認が必要となったことによるものであった。
 ラビットスクーターの最盛期を経て1961(昭和36)年頃より日本国中で始まったモータリゼーションの波は、更に四輪車へとシフトされ量産拡大が進むにつれ、造られた製品の検査作業は次第に重要な位置づけとなってきた。
ラビットスクーター

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