当社が日刊工業新聞に掲載されました

当社が日刊工業新聞(2010年1月26日)に掲載されました。
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<以下、記事全文>
-企業の人材採用戦略-
 景気低迷で中堅・中小企業に雇用縮小の動きがあるなかで、20年以上、採用活動を継続しています。
「当社は『日本一の自動車部品メーカー』を目標に掲げ、顧客に技術を提案できる技術者集団を目指している。このため、仮に技術者を採用しない年があると、技術者の育成に断層が生まれ、数年後に必要な人材がいなくなってしまう。一番少ない時でも2人は入れて、採用を継続させてきた」
 将来の技術者を採用する点で重視する点は。
「元気で明るく、コミュニケーションが取れること。当社の採用は工学部卒中心だが、理系出身だからといって絶対条件ではない。相手の目をみて話しているか、間違ってもいいから、自分の言葉をはっきりと伝えているかなどを見ている。能力はやる気があれば会社に入ってから身につく」
 必要な能力は会社の環境次第で身に付くと。
「イチローだってドラフト1位でプロに入団したわけではない。経営者の役割はどう育ちやすい環境を整備するかだと思う。そのためにまず必要なのは信頼関係の構築。例えば朝早く、幹部らが現場を回り、あいさつなど身近なコミュニケーションをしている。数年前までは『社長と飲もう会』を企画し、社員一人ひとりとの懇談会も開いていた」
 このほか人材育成で工夫していることは。
「3-5年でローテーションを変えている。例えば生産ラインの設計に携わっていたら、次は現場に配置する。自分の設計が現場でいかに使いづらいか肌で感じさせることで、設計に戻ったときにフィードバックでき、技術の向上につながる」
 人材確保で工夫していることはありますか。
「業績が順調に向上してきたこともあり、当社を志望する学生は多い。例年5-10倍の倍率で採用活動で困ったことはない。足利工業大学、帝京大学といった栃木県内の大学の学生を中心になるべく地元の人間を採用するようにしている」

(5)先進的労務管理施策の展開 《人事・安全・環境》

1)雇用管理の見直し 2005(平成17)年~2006(平成18)年
 これまでの雇用制度の見直しも行った。2005(平成17)年4月、役職定年制を導入し、管理者・監督者の若年化を図った(2008年4月に廃止した)。
 また、次期取締役候補の育成を図る執行役員制を2006(平成18)年10月にスタートさせた。
 公的年金制が社会問題となる一方で、定年退職者の再雇用が会社に対して制度として要望されるようになってきた。深井製作所は2006年3月定年退職者再雇用規則を改訂し、段階的に65歳まで雇用していく方法を採用した。

2)時代に沿った新社内研修の取り組み 2005(平成17)年~2008(平成20)年
 人材育成のため、教育は以前より熱心に行われていたが、社内研修が初めて体系的に実施されるようになったのは、1983年(昭和58年)1月からである。
 上記したように、1982(昭和57)年新人事管理制度確立の動きのなかで、「作業等級規定」「賃金規定」「資格規定」が制定展開された。「資格規定」に基づく資格試験が実施され、試験に先立って社内教育が行われた。QC、IE、原価、JST、MTPの教育であった。どちらかというと現場社員または管理監督者向けの教育であった。10年後職能資格制度の下、1992年(平成4年)にはさらに間接部門向けの科目や工場部門の職種毎の科目を増やし、さらにQCやIEも等級の低い1等級の人から理解できるように、従来のものをバラシ等級毎に組立て直した。
 社内研修は、職能資格制度とリンクし、研修の受講率は昇格試験の受験資格の条件となった。しかし、同じことを長くやっていると内容が時代に合わなくなってくることは否めない。
 2005(平成17)年頃から教育委員会が設置され、社内研修の見直しが始まり、時代の変化や企業活動に要求される多様化に対応すべく、社員の質的変化やレベルの向上を図るため、「原理・原則」に即して新しい社内研修の体系を作りあげた。
社内研修

 2007(平成19)年4月、最も重要と考えられる、「安全」「原価」「品質」に新しい展開が行われた。部課長が、テキストを作成し講師を務め、それぞれの科目は全職種を対象としている。テキストはそれぞれがわかりやすく、精度の高いものとなった。
 アメリカやイギリスその他海外での取引が多くなり、さらに部門も多岐にわたって出張や滞在の頻度が多くなってきたため、英会話能力(英語能力)が必要となった。
 そこで2004(平成16)年10月から、社内で英会話講座を開始した。講師には英米人の方を迎えており、既定の受講回数の修了時には全員TOEICの試験を受けることになっている。
 受講修了者はすでに英米での仕事に活用している。
管理者研修監督者研修

3)労働時間の短縮 1981(昭和56)年~2008(平成20)年
 我が国の戦後は、1947(昭和22)年の労働基準法(週48時間労働制)による影響で急激に労働時間は短縮された。
 その後、経済復興で経済の稼働率が上昇するにつれて労働時間は長くなったが、1960年代にはいると生産性向上の成果も得られ労働時間は短くなってきた。
 60年代後半のいざなぎ景気が過ぎ1970年代のオイルショック後、労働時間はさらに短くなってきた。
 1981(昭和56)年当時、我が社の年間所定内労働時間は2121時間40分で、年間の労働日は268日、休日数は97日、1日の所定内労働時間は7時間55分という状況であった。
 当時の生産量は現在の約2倍はあったというこの時期に、さらには時短は実質賃上げという考え方もあり、所定内労働時間を短縮するには躊躇があったろうと推察される。
 しかし、この頃から我が社も労働組合の労働諸条件改善要求を契機として労働時間短縮の方向へと向かった。
 1980年代に世界から日本は「働きすぎ」と批判を浴びる中、’88(昭和63)年には法定週労働時間を48時間から40時間へ短縮する改正労働基準法が制定され(当面46時間)、’93(平成5)年に週40時間への実際のシフトが決まった。基準法にしたがい、翌年我が社も週平均労働40時間制に変更した。
 また、1992(平成4)年には、時短委員会(※)で有給休暇取得制度を検討しているなかで、リフレッシュ休暇制度を取り入れた(10月1日制定)。1年間の中で1回3日間連続で有休を取得することができ、土日曜の休暇を合わせて利用すると連続5日間休みがとれるという制度である。またこのとき、それまで当月に恣意的に取得していた有給休暇を、前月のうちに計画的に申請する取得制度に改めた(計画休暇)。有給休暇を取りやすくしたのである。

(※注)時短委員会   1989(平成元)年に総労働時間短縮に向け労使双方で構成され設置された委員会。

その後、所定内労働時間は以下のように減少推移した。

1984(昭和59)年 2090時間、年間労働日は264日、休日数は101日、1日の所定内労働時間7時間55分
1988(昭和63)年 2066時間15分、年間労働日は261日、休日数は104日
1993(平成5)年  2026時間40分、年間労働日は25日、休日数は109日
1994(平成6)年  1日の所定労働時間は8時間とした。
1995(平成7)年   1992時間となり2000時間を割った。
1998(平成10)年 1976時間、年間労働日は247日、休日数は118日
2000(平成12)年 1952時間、年間労働日は244日、休日数は121日

 休日数は主要な得意先である大手企業の富士重工業と同じになった。
 以降、2008(平成20)年の今日に至るまで、年間年間所定内労働時間は1952時間となっている。

 所定内の労働時間の短縮はみてきたように前進を続けてきたが、所定外労働時間を含めた総労働時間も短縮されてきたわけではない。生産量を消化せざるを得ない状況で総労働時間を減らしていくのは困難な問題と言わざるを得ない。
 仕事と家庭生活を両立させるべく登場したのが、2005(平成17)年の次世代育成支援対策推進法である。
 我が社は、推進行動計画のなかで、平均所定外労働時間を2007(平成19)年までに年間240時間以内とする方向を示している。
 また有給休暇取得率を、2007年までに現行41%から60%以上にするとした。
 適正な労務管理をめざし果敢に取り組んでいる現状である。

(4)職場環境改善への取り組み 《人事・安全・環境》

1)大月本社工場への統合 1993(平成5)年~1998(平成10)年
 1993(平成5)年8月、大月新工場が完成し稼働を開始したわけであるが、このときはまだ御厨工場の機能の一部が移転しただけであった。続いて、'94(平成6)年11月に太田工場を、翌年'95(平成7)年11月に新田工場を閉鎖し大月工場に移設統合した。そして、'97(平成3)年3月までに御厨工場の機能のすべてを移設、ここに深井製作所の機能が全面的に大月工場に統合するに至った。
 従業員にとって5万坪敷地の会社の内外の環境はすべてが新しかった。全員の通勤経路が変わり大月工場に集結した。
 そういう中、1995(平成7)年に足利工業大学より桜の苗木100本の寄付を受けた。今では主幹も太く成長し、毎年4月になると満開の桜が工場外周に彩りを添えている。
 徐々に工場外周環境や職場環境に応じた新しいルールを策定、整備していった。
大月工場

2)職場改善から環境管理へ(環境マネジメントシステムの導入) 1999(平成11)年~2008(平成20)年

 1998(平成10)年4月、当社はISO9001を認証取得した。翌年7月、顧客である富士重工主催の環境問題研究会が始まった。ISO14001取得を前提とした第1部会会社の集まりの勉強会であった。主に、各会社の総務関係のメンバーが参加した。当時、すでにISO14001を認証取得していたのは第1部会11社中1社だけであった。コピー用紙と産業廃棄物の削減目標を立て、研究会で勉強し各社で削減活動を行った。
 この研究会は、翌年3月まで続いた。大半の会社はこの後ISO14001の認証取得に向けて活動を開始することになった。
 しかし、当社は、すでに取得していたISO9001をQS9000に切り替える準備があったため、QS9000認証取得後に活動を開始するということになった。
 結局、全員集会にてISO14001認証取得に向けてキックオフをしたのは、2004(平成16)年4月1日であった。
 大月工場は自然環境豊かな工場であるが、環境改善を目的に環境管理を始めたのはこの頃からであった。
 工場敷地内にあった可燃物焼却場の廃止にともない、ゴミの分別を開始した(2000年1月)。このとき可燃物廃棄物のポリ容器を全社統一して設置した。また工場北側に産廃物の分別集積場の「エコターミナル」を新設した。深井製作所の環境方針を策定しこの環境方針に基づき、各部署が環境に関する改善目標をたて改善活動を開始した。
 2005(平成17)年2月22日認証取得した。
 生産工場の源泉というべき金属原材料、電気利用の削減には当初から果敢に取り組んでいる。
ISO14001

3)安全衛生マネジメントシステムの導入 2004(平成16)年~2008(平成20)年
 大月新工場が稼働開始して以来、従業員が安心・安全に生産活動に従事できるよう安全衛生体制や防火防災体制の整備の充実を図ってきた。
 安全衛生や防火防災活動は労使より構成される安全衛生委員会を中心に、常に社内の隅々に目を配りながら適切な対策をとり、またときに監督署や消防署の要請に応えながらおこなってきた。
そんな中、2000(平成12)年11月、栃木労働局より快適職場推進事業所に認定されたことは喜ばしい出来事であった。
 2004(平成16)年12月、監督署より安全衛生マネジメントシステムの導入要請があった。
 1999(平成11)年、労働安全衛生法の一部改正により、『労働安全衛生マネジメントシステムに関する指針』(平成11年4月30日)が告示された。
 バブル経済崩壊後、社会経済情勢の変革の流れの中で安全衛生管理についても変化がみられた。労働災害は減少してきているものの、人員の合理化、アウトソーシング化、分社化により安全衛生管理部門の人材が減少し、安全確保の面で知識や技術が次世代に円滑に伝承されにくくなってきた。そこで安全衛生管理を確保する方法として新しく登場したのが安全衛生マネジメントシステムである。
 そういう背景があっての導入要請であった。
 しかし、当社では他社にみられるような人員の合理化等の事情はなく、人材の減少はなかったが安全衛生マネジメントシステムを導入することにした。それは監督署の要請は導入の一契機ではあったが、年4~6件の労働災害が発生しており、それを何とか導入することにより削減したいという会社としての強い一念があったからである。2006(平成18)年4月、安全衛生マネジメントシステムの導入を開始した。
 日々の安全衛生活動により工場内の働く環境は整備されてきた。しかし工場の構造によるためか、冷暖房や溶接の排煙対策に苦心・苦悩してきた。様々な対策をとってきたが、いまだ今日の大きな取り組む課題となっている。
快適職場認定書

4)5S活動の変遷と変身 1997(平成9)年~2008(平成20)年
 5S活動は安全衛生活動をはじめすべての活動の基本である。
 そのような認識のもと5S活動は御厨工場の時代に一時期おこなっていた。大月工場に移転してからは、1997(平成9)年に富士重工指導によるSPS活動の一環で5S活動をおこなった。これは主に工場内の一部(組立職場のライン)を中心にした活動であった。
 工場内・ライン・設備における標準類の作成(ルールづくり)をおこなった。このときの標準化の考えはこの後のFPS活動にも流れ、安全衛生活動などさまざまな活動に活用され現在にも及んでいる。
次に工場、事務所を含めた全社的な5S活動が始まったのは1999(平成11)年からであった。各職場の5S活動を競争の形をとり、相撲番付になぞらえて楽しく展開し、評価・表彰もおこなった。このときは評価の難しさを痛感した。
 2002(平成14)年、新たな5S活動が開始された。その名も「儲かる5S」であった。柿村専務(当時)を中心に5S推進委員会が組織され活動が始まった。目的は、「異常がわかる」「ムダが見える」「会社が儲かる」ことである。トップダウンのやり方で行ったが活動の中心は各職場の課長であった。活動期間は当初1年間としていたが、2007(平成19)年10月まで続いた。写真を活用し他社へ工場見学を行なったり、表彰制度も取り入れながら5S活動を進めた。活動の成果は工場内の随所に現れ、他社の評判にもなり見学者が増えた。
 その後5S活動のトップが交替し、同年11月から5S推進委員会の構成を変更し、委員会を中心に新たな活動が展開された。毎月課長以上による土曜休日の活動も行うなど、大月工場稼働開始以来の大がかりな5S活動であり、15年間の垢落としがスタートした。
5S指導会

きむら5S実践舎の木村温彦先生・越前行夫先生の指導も同時に開始された。両先生の理論をともなった指導・改善ヒントはわかりやすく誰でもできる改善となっている。「見える化」「コンビニ化」「自分のために」などをめざし、日々邁進している。
 "みんなで実践 変えよう 変わろう!"(5Sキャッチフレーズ)
  このキャッチフレーズは、全従業員から募集し1位になったものである。このキャッチフレーズの下、従業員も会社も変わる日が近いことを念願している。
5S活動で整然とした職場

(3)人事管理制度の変遷 《人事・安全・環境》

1)年功序列型人事管理から能力主義的人事管理への転換
 わが国の企業における人事管理は、長い間年功序列を中心に行われてきた。しかし技術革新その他による経済活動の高度化は、生産工程や労働内容そのものに著しい変化をもたらした。昇進・昇給などの基準を各人の年齢や勤続年数でなく、能力そのものに求める必要が生じてきた。
 すなわち、年功序列型人事管理から能力主義的人事管理への転換が必要になってきた。

2)職能資格制度の導入 1985(昭和60)年~1992(平成4)年
 深井製作所においては、1980(昭和55)年から能力主義を内容とする新人事管理制度確立への具体的な動きが始まり、1982(昭和57)年に至って関連3規定、すなわち「作業等級規定」・「賃金規定」および「資格規定」が制定され社内展開された。
 しかしながら、運用面においてさまざまな問題が発生した。
 そのひとつには、”飛び級”があり昇格時に昇給幅が大きくなりすぎ制度の運用が困難になった、というような点があった。そこで1985(昭和60)年11月、外部の専門家の指導の下に、1986年4月「職能資格等級制度」に改めた。「ヤレばヤッタだけ」の精神の導入である。この制度は「職能要件書」を中核に、職種別・等級別に必要な能力のレベルと内容を示したもので、9月に完成した。いうならば社員の能力のあるべき姿が示され、指導・育成していくという制度である。
 この制度は20年経った今日でも生き続けている。この年4月に賃金制度も改めた。このとき全従業員に対して、人事管理委員会より小冊子『「職能資格制度」について』を発行配付し、新人事管理制度の説明会を実施し理解を求めた。この年10月には職能資格制度に基づく人事考課制度も導入した。翌年4月には賃金と連動するこれまでの退職金制度を改め、ポイント制退職金制度に変更した。誰でもが自分の退職金計算ができ将来予測が可能となった。6月、職能資格制度に基づく最初の昇格試験を実施した。このように次々と精力的に人事制度の改訂をおこなった。
溶接作業

3)職能資格制度の定着 1993(平成5)年~1996(平成8)年
 職能資格制度を導入して数年が経って、職能要件書に記載されている仕事内容が実際の仕事と合わなくなってきた。
 そこで、1993(平成5)年4月、職能要件書を全面改訂した。さらに6月人事考課の公正・公平を考慮し、目標の難易度を織り込んだ人事考課方法に改めた。1994(平成6)年2月、職能資格制度導入後8年経過したところで制度の定着化や今後の改訂方向を調査するため、初めて従業員に対して職能資格制度に関するアンケートを実施した。高齢になるほど年功序列に寄り、若い人ほど職能資格制度を良しとする傾向があることが判明した。
溶接ライン作業

4)職能資格制度の見直し 1997(平成9)年~2002(平成14)年
 1990年にバブルがはじけ経済情勢が厳しさを増してきて、’93年頃から大企業ではリストラが始まった。’95年4月の完全失業率は1953年以降最悪の3.2%(214万人)となった。空前の就職難であった。
 労働白書によると’97年には定職を求めない若者のフリーターが151万人で大卒の2.3%にもなった。
また、2000年の春闘賃上げは最低の1.94%であった。これらは経済情勢の厳しさを物語っている。
深井製作所も様々な面を見直す必要が生じた。人事制度も例外ではなかった。これまでの能力給あるいは"役割"を見直すことであった。
 その一つの改訂が1997(平成9)年10月、管理職の手当を変更し役割給を導入したことであった。さらに、2002(平成14)年4月に年功的色彩の年齢給を廃止し、従来の職能給を新職能給体系(保有能力給・職務給)に変更した。
技能検定合格者

(2)大月工場建設と人員増加活動・人事交流 《人事・安全・環境》

1)受注増加・大月工場建設にともなう人員増加計画 1990(平成2)年~1993(平成5)年
 1989(平成元)年は、大きいできごとがあった年であった。
 1月17日に昭和天皇が崩御し、年号が昭和から平成に変わった。
 アメリカでは、同月21日にブッシュ政権がスタートした。4月に消費税(3%)が施行され、6月には昭和の国民的歌手美空ひばりが死去した。11月には、ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一に向かった。12月29日日経平均株価が史上最高値の38915円87銭を記録した。これを最後に株価は下落へ転じ、バブル景気は崩壊へ向かっていった。
 しかし、深井製作所は3工場体制(御厨工場、太田工場、新田工場)による産業機械部品の新規顧客の増加、さらに自動車部品の新規部品などの受注増にともない、現在と将来を担ってゆく人員を増加することになった。1.5倍にする人員計画であった。
 つまり従業員300名を450名に増員するというものであった。ところが当時は、『会社動向』で記したようにバブル景気を背景に、製造業は3K業種(きつい、汚い、危険)ともいわれ若い人から敬遠されていたこともあり、大変な採用難で若い人を増加するためには特別に戦略を考える必要があった。そこで考えられたのが、どうすれば若い人が会社に入る気になるかを検討する『入りたい会社づくり委員会』の設置と、大学・高校に採用を働きかけるプロジェクトチーム『採用本部』の設置であった。

①『入りたい会社づくり委員会』の設置・活動 1990(平成2)年~1991(平成3)年
 『入りたい会社づくり委員会』が設置されたのは1990(平成2)年5月のことであった。
 委員会は、委員長を柿村常務(当時)がつとめ、委員は組織と関係なく各年代から2名ずつ計10名が選出された。これに労働組合委員長が加わった。活発な議論がされた。新ユニフォームの改善、社内レンタカー、個人が旅行するときの会社負担、Jリーグの年間ボックスシートの契約、車を購入する際の資金の貸付、それから新工場構想まで検討がされた。
 これらはさらに検討がされ逐次実現することになった。ユニフォームは1991年から冬用・夏用さまざま考案され実現した。何種類かある中から個人個人の好みで選べる新しい考え方であった。冬用の上着は薄いベージュのものからグリーンを基調とするものに替わった。エピソードがある。冬用のブルゾンのユニフォームを着たままスーパー やホームセンターに入るとよく店員に間違えられた。ユニフォームは種類が多く管理も大変だった。その後種類も改善され現在に継続されている。
 社内レンタカーは1992(平成4)年4月からスタートした。家族や友達仲間で利用できるように8人乗りのキャラバン”フウライボウ”、スポーツカータイプのSVXが選ばれた。後にフォレスター(アウトドアー向けSUV)も加わり3台となった。社員に好評で土日曜は常に予約が入っていた。
フウライボウ

 旅行は宿泊すると会社がその費用を一部負担する制度ができた。
 1991年に(社)日本プサッカーリーグとして設立されたJリーグは、これまでメジャープロスポーツといえばプロ野球やプロゴルフ、大相撲くらいしかなかったが、にわかにサッカー人気が沸騰した感があった。1993年には「Jリーグ」は流行語大賞になった。
 Jリーグ設立当時は10チームであった。重要な得意先であった日産のJリーグ横浜マリノスの年間ボックスシートの利用は、水曜と土曜であったが好評でいつも抽選をおこなうほどであった。
 車購入資金の貸付は、利息に便宜を図って車を買えるようにした。1991(平成3)年12月に制度化し、後には社員だけでなく、入社前の新入社員にも適用を広げ、現在でもこの制度はよく利用されている。
これらは会社にはこれまでいずれもなかった制度であったが、とりわけ画期的なものが会社PR誌の発行であった。誌名は『QUEST』(クエスト)(B5判)。1年に4回の発刊で決まった。
QUEST

 会社のメンバー6名とデザイン業者の合同製作で案を双方で出し合いながら作っていった。発行部数は800部、仕上がると近在の大学生高校生にダイレクトメールした。『QUEST』は社員や職場紹介・製品説明・イベント・『入りたい会社づくり委員会』で行っていることなど、あらゆる誌面に工夫を凝らした雑誌であった。面白いと高校生の父兄には好評で、他社にも評判となった。『入りたい会社づくり委員会』の活動の様子は、1991年6月13日(木)PM6:10からNHK「首都圏イブニングネットワーク」で放映された。
入りたい会社づくり委員会

②採用本部の設置・活動 1991(平成3)年~1993(平成5)年
 採用本部は直接大学、高校に採用を働きかけるプロジェクトチームであった。これまで新卒採用は総務担当が1~2名があたっていたが、この採用本部は役員を含め5名体制の専属チームであった。
 1991(平成3)年~93(平成5)年9月の期間活動した。3年間で150名の新卒採用の使命を帯びていた。学校訪問には若者受けを考え日産車のシルビアを利用した。前述した『QUEST』も活用した。
 1991年の新入社員は1名であった。『入りたい会社づくり委員会』や、この採用本部の活動で、1992(平成4)年の新卒者は31名、’93年は39名、’94年は20名となった。
 目標の150名には及ばなかったものの成果は歴然としていた。

2)大月工場建設後の人事交流 1991(平成3)年~2008(平成20)年
 新卒者増加の採用活動を活発におこなっている一方、大月工場建設準備や受注増加にともない管理スタッフ人員が不足してきたため人材を外部に求めることになった。
 大月工場建設から稼働までの責任者として、1991(平成3)年2月1日、元本田技研工業出身の君島行男氏が大月工場所長(専務取締役)に就任した。以降、今日に至る約20年間にわたり過去に例がないほど外部の多数の方々が深井製作所の発展に力を注いでいただいた。
 富士重工業、日産自動車栃木工場、日産ディーゼル、三洋電機、足利銀行など顧客各社の方々が、工場建設、プレス組立製造部門、プレス保全部門、生産管理改善およびFPS、金型工機・設備治具部門、技術開発、品質保証部門、経営財務部門で、各部門の強化・充実・発展あるいは後継者育成等に尽力され、深井製作所の基盤づくりと発展のために足跡を残され、あるいはまた今日も活躍されております。

(1)会社創立から50年間 【1938(昭和13)年~1987(昭和62)年頃】 《人事・安全・環境》

1)創業時 1938(昭和13)年~1964(昭和39)年頃
 会社創立当時(足利郡山辺町八幡)の1938(昭和13)年10月は、従業員数は11人であった。戦時下のことであった。その後深井製作所は、軍需産業として、中島飛行機(株)からの発注量に対応するため、’41(昭和16)年の25人、’42(昭和17)年には33人に、’43(昭和18)年には46人に、そして’44(昭和19)年には64人に増加していった。戦後インフレのあとの不況のなか、’49(昭和24)年には、従業員は16人に減った。心機一転を図り、5月には四万温泉へ初めての慰安旅行を実施した。
この頃工場の周辺はまだ一面たんぼで道路も砂利道であった。通勤は近在の人がほとんどであったため、徒歩か自転車であった。納品もオート三輪車であった。
 昭和30年代のモータリゼーションの流れに乗り、ラビットスクーターや日産スカイラインの好調から急成長し、1960(昭和35)年の決算期には、初めて売上高が1億円の大台にのった。 1961(昭和36)年に従業員は100人を越えた。

2)山辺工場から御厨工場へ 1965(昭和40)年~1967(昭和42)年
 そしてこのあとも成長は続き、手狭になった創業地山辺工場から1965(昭和40)年に、足利市内の福富新町に御厨工場を新設し従業員も200人を突破した。この頃の通勤事情としてマイカーの人はほんのわずかで、ほとんどの人がバイク・自転車であり太田方面在住の人の中には電車通の人もいた。前の工場が東武伊勢崎線山辺駅近くにあったときは電車通の人は困らなかったが、御厨新工場に移転してからは最寄りの駅は東武和泉駅となり駅から歩いて通うには遠すぎた。
 そこで会社から大型バスとマイクロバスをだして通勤の便を図った。大型バスは国鉄足利駅と東武足利市駅をまわり、マイクロバスは東武和泉駅を往復して従業員の足の替わりを勤めた。このバスは昭和50年代の中頃まで続いた。しかし、この頃は「東武和泉駅からのこの道は、一雨降るごとに穴だらけの水溜まりと化し、だれが修復してくれるでもなく、2トントラックに積んだ製品は、荷擦れ・へこみ・変形の続発で、」「電気を引くにも自己負担で電柱を建て、水道は無く井戸水での対応は水質が悪く、100メートル掘った地下水もマンガン含有が多く、お茶は黒くなるし水垢で冷却水のパイプが細くなって冷却不能になり、スポット剥れが発生するなど」(『深井製作所五十年史』より)、新環境のスタートは大変だったようだ。

3)人員増加と新たな福利厚生 1968(昭和43)年~1977(昭和52)年
 創立30周年を迎えた1968(昭和43)年には、従業員数は300人になった。人員が300人を越え、管理体制を強化する必要性から同年1月に資格制度が設けられた。現在から見ると、役員兼部長級が参事、課長級の主事、係長級に技工という資格名であった。
 また同年末、従業員を何より重んずる前社長の発意により永年勤続者、健康優良者を対象とする第1回従業員表彰が行われ働く意欲向上につなげた。
 1970(昭和45)年に入って家族寮と独身寮が新築され、福利厚生面の前進が見られた。1973(昭和48)年は、社内行事、出来事が目白押しに行われた。ボーリング大会(1月、3月、6月)、卓球大会(2月)、潮干狩り(4月)、海外研修(4月)、慰安旅行(4月)、植木展示交換会(6月)、奨学金制度制定(定時制通学者、7月)、軟式野球大会(7月)など。この頃はこういった行事が盛んにおこなわれていた。1973(昭和48)年10月の石油ショックによる直接的な衝撃を深井製作所は免れたが、従業員の増加による人件費の増大にともなう収益力の低下の不安があった。  
 1977(昭和52)年には従業員が419人になった。(75年の新入社員は71人の創業以来最多採用、76年は15人、77年は40人)。
先代深井義信社長による第一回従業員表彰
先代深井義信社長による第一回従業員表彰

4)人事管理制度の夜明け 1978(昭和53)年~1986年(昭和61)年
 1978(昭和53)年末からの第2次石油危機による石油価格の高騰で、再度インフレから不況へ陥り景気は一気に冷え込んだ。深井製作所も83年頃まで低迷が続いた。     
 合理化活動に立ち上がった。1980(昭和55)年から、能力主義を内容とする新人事管理制度確立への具体的な動きが始まり、1982年に至って「作業等級規定」、「賃金規定」および「資格規定」が制定され社内展開された。管理制度の改革や管理者教育にも熱が入った。経済情勢は’84年、’85年になってようやく回復が見られ始め、深井製作所も伸びを示した。
 人事管理制度は、その後専門家の助力を得て、’86年4月「職能資格制度」と改称し新制度が誕生した。今日の人事管理制度の基礎となった。

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