70年のあゆみ-生産体制

( 9 )産業用ロボットの導入 【1982年、昭和57年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 新車開発ラッシュにともない各自動車メーカーは、一斉に溶接ロボットを導入しラインの自動化を図った。
1982年(昭和57年)日産パルサー受注にともない深井製作所も初の産業ロボットを導入した。川崎重工製の産業用ロボット3台を導入、名前を公募し「よっちゃん」「とみちゃん」「たけちゃん」と決定され組立工場のマスコット(?)になった。その後新規ラインに導入し続け現在では250台強を保有している。
 また、川崎重工(株)の生産治具部門の営業権を取得し、ロボット周辺治具設備の製作販売を手がけ、内製使用の治具設備はもとよりそのノウハウを生かし、事業とし売り上げ拡販を狙った。
川崎重工業製ロボット
初導入された川崎重工業製ロボット

(8)量から質へ 【1972年、昭和47年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1970年代になると高度成長時代もピークを迎え、企業間競争が激化し業界再編成も促進された。こういった動きは当然深井製作所にも波が押しよせ、QC・IE教育等の促進、品質管理体制の強化、能率管理・原価管理の実施などが要請された。
 当然、部品にも変化が起き品質精度のレベルが従来に較べ大幅にアップされ量から質の時代へ突入した。
 さらに追い打ちをかけたのが石油ショック(1972年、昭和47~48)年で、これは世界規模で大きなショックを受け、特に日本は大打撃を受けた。特に自動車産業もガソリンの入手難と価格の高騰等が、ユーザーの身近に迫り購買意欲が減り、自動車は売れなくなり顧客である日産・富士重工業も減収減益となった。
 しかしながら、我が社は農業機械化の進展にともない久保田鉄工(株)の仕事が増え、車関係の落ち込み分を楽に埋めさらに数倍上乗せになるほど挽回した。
久保田鉄工(株)シーブケース
久保田鉄工(株)シーブケース

 当時先代深井嘉信社長からは、100(いちまるまる)作戦が唱えられ夢に向かい全力疾走した。
 石油ショック以降、低成長時代を生き抜いてゆく企業活動として、日産自動車より「P3運動」の指導を受け、深井製作所独自の「P3TATE運動」を展開した。以降QCサークルの発足、提案制度、目標管理、小集団活動等を次々と展開導入し「本質的な企業体質の強化」をはかった。
 世界的な石油ショックは、自動車業界に幸をもたらすことにもなった。それは日本車の小型で燃費の良さに注目され、とくにアメリカ輸出が大幅に増えた。その中でも富士重工の伸びが著しく、深井製作所もその恩恵を受け、売上げ増となったが人員増が経営を圧迫し、売上げ増にともなう利益はあがらなかった。
 その後、自動車各社は猛然と新車開発に走り1977年から10年間で当社が手掛けた新車開発は、合計43車種にもなり、毎年4車種の開発を実施したこととなった。

(7)Cライン増設 【1973年、昭和48年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 プレス工場に Cライン 400トン1台、350トン3台計4台編成ラインを増設した。当時画期的なシャトルフィーダを導入し自動化を図った。

(6)御厨工場へ進出 【1965年、昭和40年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 やがて、山辺工場での生産能力も限界となり、足利市で開発した御厨工業団地への進出を決意し1965(昭和40)年本社の移転と御厨工場を建設した。
進出頃の御厨工場
 御厨工場は、敷地面積34,000㎡、工場面積10,000㎡で従業員257名と山辺工場の20倍の広さであり深井製作所の発展を語るには十分すぎる工場であった。さらに3期の工事を実施し1968年完成した。

プレスA・Bライン
プレスA・Bライン
<主な機械>
プレス工場
Aライン 500トン2台、300トン2台、200トン1台
Bライン 300トン3台、200トン1台、150トン1台、小型プレス14台、シャーリング2台

組立工場
スポット溶接機24台、アーク溶接機6台、ポータブルスポット溶接機4台、シーム溶接機2台、その他26台

治工具工場
旋盤3台、セーパー4台、フライス4台、プレナー2台、ラジアル2台、その他13台

(5)四輪自動車への進出 【1960年、昭和35年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1960(昭和35)年深井製作所は、富士精密工業(株)(1961年からプリンス自動車工業(株))と取引が可能となり四輪自動車部門進出の突破口を切り開くことができ、以降モータリゼーションの波に乗り新たな飛躍となった。
 工場も第2工場を建設し、従業員も初の100人を突破した。
 第1工場敷地面積1,754㎡、工場面積1,147㎡
 第2工場敷地面積3,316㎡、工場面積2,251㎡
<主な機械>
 旋盤4台、セーパー5台、フライス4台、プレナー1台ラジアル1台、スポット溶接機11台、シーム溶接機1台
 水圧プレス1,000トン1台、機械プレス500トン、300トン、200トン、150トン1台ずつ。他小型プレス18台。

(4)救世主ラビットスクーター 【1951年、昭和26年】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1951(昭和26)年冨士工業(株)(富士産業(株)より分社独立)よりラビットスクーターの仕事を受注し、金型製作からプレス加工・溶接・組立に至るまでの一貫生産を確立した。この当時従業員は22人であった。
 1953(昭和28)年冨士工業(株)・富士自動車工業(株)・大宮冨士工業(株)東京富士産業(株)・宇都宮車両(株)の5社が合併し富士重工業(株)が誕生した。その後ラビットスクーターの生産量はどんどんと伸び月産5,〇〇〇台を記録した。工場敷地も1,639㎡、工場面積928㎡、従業員32名となり機械も13台となった。その中でも750トン水圧プレスの導入は深井製作所にとって画期的であった。その後も200・300トンと水圧プレスを増設し先代深井嘉信社長の悲願であった一流のプレス加工屋としての第一歩を踏み込み1959年の売上高が前年の3倍の1億2千万円と初の1億の壁を超えた。従業員も71名となった。
 1947(昭和22)年から続いたラビットスクーターはその後の三輪トラックやスバル360の出現で陰りを見せ1968(昭和43)年に生産を打ち切られた。
山辺第二工場内

(3)終戦 【1945年、昭和20年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 創業後わずか6年で急激に成長し、すべてが順調にいくかに見えたが、1945(昭和20)年事態は急変した。
 終戦となり当時の深井製作所の親会社である中島飛行機(株)は、終戦とともにその生産を停止しその後社名を富士産業(株)と改め再出発した。
 深井製作所も同じく生産停止後、民需物資生産認可を受け再出発したが、戦後つくるものは家庭用品、なべ・フライパン・弁当箱等であり、それでも戦前から培った金型製作の技術を利用し短時日で売り物が出来るようになった。
 さらに、世の中は冷え込み食糧難が続き企業は利益をだせる様な状態ではなかった。深井製作所山辺工場も最少時従業員は7名まで落ち込んだ。

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