70年のあゆみ-生産体制:拡張・充実7工場の歴史

(6)御厨工場へ進出 【1965年、昭和40年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 やがて、山辺工場での生産能力も限界となり、足利市で開発した御厨工業団地への進出を決意し1965(昭和40)年本社の移転と御厨工場を建設した。
進出頃の御厨工場
 御厨工場は、敷地面積34,000㎡、工場面積10,000㎡で従業員257名と山辺工場の20倍の広さであり深井製作所の発展を語るには十分すぎる工場であった。さらに3期の工事を実施し1968年完成した。

プレスA・Bライン
プレスA・Bライン
<主な機械>
プレス工場
Aライン 500トン2台、300トン2台、200トン1台
Bライン 300トン3台、200トン1台、150トン1台、小型プレス14台、シャーリング2台

組立工場
スポット溶接機24台、アーク溶接機6台、ポータブルスポット溶接機4台、シーム溶接機2台、その他26台

治工具工場
旋盤3台、セーパー4台、フライス4台、プレナー2台、ラジアル2台、その他13台

(5)四輪自動車への進出 【1960年、昭和35年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1960(昭和35)年深井製作所は、富士精密工業(株)(1961年からプリンス自動車工業(株))と取引が可能となり四輪自動車部門進出の突破口を切り開くことができ、以降モータリゼーションの波に乗り新たな飛躍となった。
 工場も第2工場を建設し、従業員も初の100人を突破した。
 第1工場敷地面積1,754㎡、工場面積1,147㎡
 第2工場敷地面積3,316㎡、工場面積2,251㎡
<主な機械>
 旋盤4台、セーパー5台、フライス4台、プレナー1台ラジアル1台、スポット溶接機11台、シーム溶接機1台
 水圧プレス1,000トン1台、機械プレス500トン、300トン、200トン、150トン1台ずつ。他小型プレス18台。

(4)救世主ラビットスクーター 【1951年、昭和26年】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1951(昭和26)年冨士工業(株)(富士産業(株)より分社独立)よりラビットスクーターの仕事を受注し、金型製作からプレス加工・溶接・組立に至るまでの一貫生産を確立した。この当時従業員は22人であった。
 1953(昭和28)年冨士工業(株)・富士自動車工業(株)・大宮冨士工業(株)東京富士産業(株)・宇都宮車両(株)の5社が合併し富士重工業(株)が誕生した。その後ラビットスクーターの生産量はどんどんと伸び月産5,〇〇〇台を記録した。工場敷地も1,639㎡、工場面積928㎡、従業員32名となり機械も13台となった。その中でも750トン水圧プレスの導入は深井製作所にとって画期的であった。その後も200・300トンと水圧プレスを増設し先代深井嘉信社長の悲願であった一流のプレス加工屋としての第一歩を踏み込み1959年の売上高が前年の3倍の1億2千万円と初の1億の壁を超えた。従業員も71名となった。
 1947(昭和22)年から続いたラビットスクーターはその後の三輪トラックやスバル360の出現で陰りを見せ1968(昭和43)年に生産を打ち切られた。
山辺第二工場内

(3)終戦 【1945年、昭和20年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 創業後わずか6年で急激に成長し、すべてが順調にいくかに見えたが、1945(昭和20)年事態は急変した。
 終戦となり当時の深井製作所の親会社である中島飛行機(株)は、終戦とともにその生産を停止しその後社名を富士産業(株)と改め再出発した。
 深井製作所も同じく生産停止後、民需物資生産認可を受け再出発したが、戦後つくるものは家庭用品、なべ・フライパン・弁当箱等であり、それでも戦前から培った金型製作の技術を利用し短時日で売り物が出来るようになった。
 さらに、世の中は冷え込み食糧難が続き企業は利益をだせる様な状態ではなかった。深井製作所山辺工場も最少時従業員は7名まで落ち込んだ。

(2)宇都宮工場 【1944年、昭和19年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 生産量も増え、1944(昭和19)年中島飛行機(株)宇都宮工場とともに深井製作所第2の工場、宇都宮工場を建設しさらに受注増となった。敷地面積562㎡工場面積377㎡従業員15名、機械9台で当初飛行機の金型、治具、部品等を生産する。
 その後、終戦を迎えた後宇都宮工場は1954(昭和19)年に閉鎖した。

(1)たびだち 山辺工場 【1938年、昭和13年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 深井製作所は、中島飛行機(株)の協力工場として1938(昭和13)年足利市山辺に会社を創立し70年のたびだちとなった。
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山辺工場敷地配置図

 敷地面積879㎡工場面積469㎡従業員11名で当初飛行機の金型、治具、部品等を生産する。
当時の設備としてはC型プレスと呼ばれる小型プレス3台・旋盤1台・セーパー2台・フライス盤1台・ボール盤1台であった。
c-press.jpg
C型プレス

 その後日本は、太平洋戦争に突入し1941(昭和16)年中島飛行機(株)も軍需会社の認定を受け、深井製作所も航空機部品製造工場の指 定「皇国第4666工場」工場となり、機械設備も増えプレス6台となり他の機械も合計18台から26台となり従業員も3年で25人から103名と一挙に増えた。

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