70年のあゆみ-生産体制:拡張・充実7工場の歴史

(13)大月工場建設 【1989年、平成元年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 受注拡大にともない職場が手狭となり建設を進めていた大月工場が1993年(平成5)年完成した。
大月工場建設にあたってのコンセプトは無人化であり、タンデムプレスのロボット化を大月工場にも導入する検討をした。ロボット化は、プレス搬送にも採用され御厨工場にCライン(400t始めとし4台編成ライン)でトライを実施し大月工場に2ライン採用された。通常1ライン5人の作業者が必要なところ、2ラインで4人の作業者で生産できるラインを構築し当時としては画期的なシステムであり一部の特許出願も行い、システムとしての販売も数社に行った。
 組立ラインは、直線コンベアが設置され製品荷姿はコンベアラインエンドとなり荷姿作業とフォーク運搬作業が大幅に削減された。また地下ピットが設けられロボットの制御盤や配電盤が収納され天井空間が確保された。これまでにない職場が実現した。
大月工場コンベアライン
大月工場コンベアライン

(12)新田工場発足 【1988年、昭和63年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 その後群馬県新田町にあった子会社深井工業(株)を新田工場として発足した。新田工場は敷地面積5,183㎡、工場面積1,240㎡の建設機械部品の専門工場としてスタートさせた。
 この考え方は見事にその後の売上げ拡大に寄与し、月産数にして1~100台までの新田工場、100~1000台を得意とする太田工場、そして、1000台以上数万台の生産が可能な御厨工場とどんな生産数にも対応できる他の会社では類をみない工場ネットワークが確立出来た。
新田工場タレパンライン
新田工場タレパンライン

(11)太田工場買収 【1988年、昭和63年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 群馬県太田市にあった石井工業(株)の用地・建物を買収。敷地面積3,305㎡工場面積2,366㎡の農機機械部品専門の太田工場をスタートさせた。部品としては多品種少量生産を得意とし主に(株)クボタ(旧久保田鉄工)を主顧客とし集成専門の工場とし売上げに貢献した。その後、三洋電機(株)空調事業部と取引開始(1990年)し空調用熱交換機に使われる煙管等の受注が増え瞬く間に工場が一杯になった。
太田工場組立ライン
太田工場組立ライン

(10)設備増強と合理化活動 【1979年、昭和54年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 深井製作所は、相次ぐ新車開発による設備投資費用増と進まぬ合理化活動で業績が悪化をたどった。
 そんな中で、合理化を達成すべく4つのプロジェクトチーム(KPT経費削減、GPT外注部品費低減、SPT生産工数低減、ZPT材料費低減)が結成され目標に向かい活動が開始された。
さらに、「新生産方式」を導入し、過去からの理論や手法慣習化した意識や考え方、固定観念・既成概念を取り払い、発想の転換や意識改革を養った。
 そうした活動が報われ3年後に創業以来過去最高の利益をだし、1980(昭和55)年600トントランスファープレスを導入し、プレスの自動化が進められた。
 工機工場にも1982(昭和57)年NC立て中ぐり盤も導入し金型製作のNC化・自動化への歩みが始まった。
 さらに、1983(昭和58)年のプログレッシブ300トン、翌年1984(昭和59)年には1600トントランスファープレスを導入した。
 これらの設備増強は当然収益面を大きく圧迫し以後数期極めて苦しい時期が訪れ、さらなる合理化計画が打ち出された。
 その後苦しい時期は脱し、1986(昭和61)年には 収益面で好転した。

( 9 )産業用ロボットの導入 【1982年、昭和57年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 新車開発ラッシュにともない各自動車メーカーは、一斉に溶接ロボットを導入しラインの自動化を図った。
1982年(昭和57年)日産パルサー受注にともない深井製作所も初の産業ロボットを導入した。川崎重工製の産業用ロボット3台を導入、名前を公募し「よっちゃん」「とみちゃん」「たけちゃん」と決定され組立工場のマスコット(?)になった。その後新規ラインに導入し続け現在では250台強を保有している。
 また、川崎重工(株)の生産治具部門の営業権を取得し、ロボット周辺治具設備の製作販売を手がけ、内製使用の治具設備はもとよりそのノウハウを生かし、事業とし売り上げ拡販を狙った。
川崎重工業製ロボット
初導入された川崎重工業製ロボット

(8)量から質へ 【1972年、昭和47年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1970年代になると高度成長時代もピークを迎え、企業間競争が激化し業界再編成も促進された。こういった動きは当然深井製作所にも波が押しよせ、QC・IE教育等の促進、品質管理体制の強化、能率管理・原価管理の実施などが要請された。
 当然、部品にも変化が起き品質精度のレベルが従来に較べ大幅にアップされ量から質の時代へ突入した。
 さらに追い打ちをかけたのが石油ショック(1972年、昭和47~48)年で、これは世界規模で大きなショックを受け、特に日本は大打撃を受けた。特に自動車産業もガソリンの入手難と価格の高騰等が、ユーザーの身近に迫り購買意欲が減り、自動車は売れなくなり顧客である日産・富士重工業も減収減益となった。
 しかしながら、我が社は農業機械化の進展にともない久保田鉄工(株)の仕事が増え、車関係の落ち込み分を楽に埋めさらに数倍上乗せになるほど挽回した。
久保田鉄工(株)シーブケース
久保田鉄工(株)シーブケース

 当時先代深井嘉信社長からは、100(いちまるまる)作戦が唱えられ夢に向かい全力疾走した。
 石油ショック以降、低成長時代を生き抜いてゆく企業活動として、日産自動車より「P3運動」の指導を受け、深井製作所独自の「P3TATE運動」を展開した。以降QCサークルの発足、提案制度、目標管理、小集団活動等を次々と展開導入し「本質的な企業体質の強化」をはかった。
 世界的な石油ショックは、自動車業界に幸をもたらすことにもなった。それは日本車の小型で燃費の良さに注目され、とくにアメリカ輸出が大幅に増えた。その中でも富士重工の伸びが著しく、深井製作所もその恩恵を受け、売上げ増となったが人員増が経営を圧迫し、売上げ増にともなう利益はあがらなかった。
 その後、自動車各社は猛然と新車開発に走り1977年から10年間で当社が手掛けた新車開発は、合計43車種にもなり、毎年4車種の開発を実施したこととなった。

(7)Cライン増設 【1973年、昭和48年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 プレス工場に Cライン 400トン1台、350トン3台計4台編成ラインを増設した。当時画期的なシャトルフィーダを導入し自動化を図った。

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