70年のあゆみ-人事・安全・環境70年のあゆみ-会社動向・経営管理・関連企業

(8)新たな目標に向かって 【2008(平成20)年】 《会社動向》

 日々刻々と時を重ねる中、2008(平成20)年になり我が社も70年目を迎えた。
 70年前は、SFの世界と思われていた宇宙基地が現実のものとなり、日本として初めての有人宇宙施設「きぼう」が設置された。
 また、同じ月の新聞に一時国有化されていた当社のメイン銀行「足利銀行」が野村陣営に譲渡されることが報じられていた。
 さて我が社は現在展開中の中期経営計画「S-5計画」が4年目の終わりを迎える中、70年目の節目の年となった。「S-5計画」のメイン経営目標は“売上高150億円の確保”であったが、4年目の今年これまで努力してきた技術開発、拡販活動、そして新車立ち上がり(インプレッサ、フォレスター、アコード他)などにより1年前倒しして売上高168億円の達成となった。同時に企業体質も皆の知恵と汗により改善され、確実に利益が出せるようになった。
 世間に目を向けると、昨年中盤頃まで順調に推移してきた世界経済も、米国のサブプライムローン問題から減速傾向が見られ、今の経済は世界が一本化しつつあることを強く感じる。
 他にも、国内外は地球環境問題、少子化、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の台頭などさまざまなことが絡み合って複雑化している。

 いつの時代も将来を予測することは難しい。しかし、これからも世の中の潮流を的確に見極めお客様の満足を最優先し、全社一丸となって新たな目標に一歩一歩愚直に前進して行かねばならない。『ゴーイングコンサーン』

(7)企業体質強化と目標売上高150億円への取り組み 【2004(平成16)年~2007(平成19)年】 《会社動向》

1)S―5計画と体質強化
 当社の中期経営計画、過去2回を返り見ると、まず「RE計画」では利益のでる経営体質改善を目指して取り組み予定どおり最終年度で利益を出すことができた。引き続き取り組んできた「A21計画」では“守りの経営から攻めの経営”ということで活動し、技術開発では新技術が得意先に採用され売上高増に大きく寄与し、FPS活動では品質向上、生産性向上、在庫削減などにおいて大幅なレベルアップができた。それら経営成果として常に目標を超える利益が出せるようになった。
 以上のような時の流れの中、更なる企業体質強化のための中期経営計画「S―5計画」が2004(平成16)年4月スタートした。この年は大地震のあった年で10月には新潟中越地震、12月にはスマトラ沖大地震、インド洋津波で死者が23万人を越えた。
 一方良い話では翌年3月組立課、原芳男さんの次女裕美子さんが名古屋国際女子マラソンで優勝し会社が沸いた。
 さらに「S―5計画」は、高効率経営と業界トップレベルを目指したもので立案に当たっては、役員研修会を半年にわたって開催し、これまでにない計画となって売上高150億円めざし展開された。
「S-5計画」ボード

2)遊休資産の整理
 S-5計画の始まった2004(平成16)年になると、世の中の経済情勢も大分変わってきた。すでに記しているようにバブル崩壊を深井製作所はスクラップ価格の下落(6~7円/㎏)で知ったが、2004年3月には20円/㎏の声を聞き、5月には原材料値上げの話しが出るまでになった。要因は中国経済の高度成長によるもので日本を含め世界経済が活発化したことによるものである。
 日本経済の好転にともない売りに出ていた遊休資産に声がかかるようになった。まずはRE計画の時から売りに出していた国道50号沿いの独身寮跡地が、2005年9月大手不動産会社を通じ売却し住宅展示場となった。一つ決まると次々に決まり新潟県五智の保養所が同年11月に、群馬県猿ヶ京保養所の建屋と土地が2006年11月に決まり1年程の間に3件の遊休資産を売却することができた。また関連会社であるサン運輸が足利市内野田トラック団地の事務所と土地が2006年2月売却された。
 遊休資産の処分は、RE計画からの経営課題であったがこのような形で10年後のS―5計画で関係者全員のさまざまな努力と経済環境変化により解決に至り、大幅な財務体質改善に寄与した。
独身寮猿ヶ京保養所

3)将来に向けての取り組み
 当社業績はA21計画の終わり頃より安定し、売上高も130億円前後で推移するようになった。しかし得意先からの原価低減要求はとどまることなく続き、対応に苦慮しつつも将来の発展を見据えた取り組みがどうしても必要となった。
 まず人的な取り組みとして、2006(平成18)年10月執行役員制度を導入した。導入の目的は次期取締役候補の育成を図ることであった。教育面では「企業は人で成り立つ」との観点より教育委員会を発足させ、2年余りの検討を経て社内教育制度の大改訂を2007年実施した。
 さらに2004年10月より、取り巻く環境のグローバル化、そして海外出張の増加をうけ、社内英会話講座を開講し現在も続いている。また現業部門のレベル向上策として2005年より国家技能検定への取り組みも開始し、翌年に合格者がでるまでになっている。
 設備面では、今後さらに進むことが予想される車体軽量化にともなうハイテン材の加工設備として、トランスファープレス2700tを2005年12月導入した。高額投資であり、早期なフル操業を全員で取り組む必要がでてきた。
 また組立職場スペース不足解消のため同年10月駒場工場取得と同時に、大月工場西側にあった設備治具の制作組立職場を駒場工場へ移管し稼働を開始した。
今後もハード・ソフト両面はもちろんあらゆる角度から、先手でこの課題に取り組み経営目標の達成に努めなければならない。
英会話講座駒場工場(足利市駒場町)

4)品質管理システム導入による経営管理システムの強化
 今日、企業の淘汰そして第2次産業の減少が進む中、製造業として70年目を迎えることができ、まずはお客様にお礼を申しあげたいと思います。お客様を大切にする心は当社社是『三高三喜』にもありますが品質管理システムの原点でもあります。
 当社の品質管理システムはISO9000で始まった。グローバルスタンダードの流れの中、富士重工業より1995(平成7)年説明と同時に導入要請があり、認証取得に向け翌年活動がスタートした。
 まず指導のコンサルタントより「インプット」「アウトプット」の勉強から始まった。悩み苦しみながらのISO9000導入、維持向上であったがステップアップとしてQS9000への取り組み、そしてQS9000が廃止されるということでTS16949への更なるチャレンジで当社の経営管理システムは着実に向上していった。今や品質管理システムTS16949を基軸とした経営管理をシステムとして構築するまでになった。
 しかし認証機関のテュフラインランド(TUV)による外部監査において指摘事項が毎回数多く出され課題が多いことを物語っている。システム運用にたずさわる一人一人のさらなる研鑽と一部のひとに頼らないで全員で取り組む体制の早期実現を目指しているところである。
足利商工会議所ニュース

(6)守りの経営から攻めの経営に 【1999(平成11)年~2004(平成16)年 】 《会社動向》

1)A21計画と収益力向上
 1990年代初めにバブルが崩壊し日本経済は落ち込んだが、10年経過した2000(平成12)年になっても景気は回復せず、公示時価は連続下落、完全失業率も5%後半で推移した。 
 金利もこれまで経験したことのないゼロ金利政策のスタートとなり、銀行問題も表面化、当社のメイン銀行である足利銀行が2003(平成15)年11月経営破綻し国有化となった。
 そうした環境の中、当社の業績は第1次合理化計画RE計画後半には徐々に改善し第2次合理化計画A21計画へと引き継がれた。売上高は54期(1992年9月期・平成4年9月期)以来連続して減少したが、RE計画の中間となる58期(1996年9月期・平成8年9月期)に71億円でストップし、その後徐々に回復、A21計画の最終年度となる66期(2004年3月期)にはA21計画のさまざまな取り組み(別表、『A21計画の概要』」)が実を結び、136億円の売上高を確保するまでになり収益力も向上した。
A21計画ワッペン

 A21計画の好結果はさまざまなところに現れた。
 一つ目として県労働局(快適職場認定)表彰、富士重工業からは貢献賞・品質優秀賞を受賞、そしてユニプレスからも特別賞を受賞した。
 また2002(平成14)年4月には、深井社長が富士重工業から「材料プレス部品部会」の部会長就任要請があり部会活動に尽力した。そして2002(平成14)年11月に富士重工業の田中会長、2003(平成15)年5月にはユニプレスの寺田会長、鳥海社長が来社され激励の言葉を頂いた。
富士重工業田中会長(中央)ユニプレス寺田会長(右から3人目)、鳥海社長(右から2人目)

2)技術立社
 『技術立社』、社長がRE計画最終年度に当たる1998(平成10)年4月経営活動スローガンとして表明した。
 我々の物づくりは源流で決まると言われています。源流とは、広義ではいろいろありますが狭義では製品設計、工程設計そして生産設備です。源流における基本は何といってもさまざまな技術力ということになり、品質、コスト、生産性などの良し悪しがすべて決まります。
 一方、我々自動車部品業界の中の板金部品会社はメーカーから図面を頂くことが受注であり、図面どおりの部品を作ることが技術であり物づくりであった。拡販活動はいかに同業他社より多くの図面を頂くかという構図となっていた。
 こうした業界動向の中、自動車メーカーも開発車の増加やコスト削減による工数不足で我々部品メーカーに製品設計の要請が出るようになり、ゲストエンジニアということで部品メーカー技術員が自動車メーカーへ出向き製品設計するようになった。最初のゲストエンジニアは富士重工業へ1994(平成6)年新型車対応として出向した。その後、1996年以降は部品受注のためにはゲストエンジニアは不可欠な時代となり、富士重工業を初めユニプレス等の自動車メーカーや部品メーカーへ技術員を駐在させ拡販活動を行う時代となった。
 また、提案企業として新技術・新工法・新製品のプレゼンテーションを積極的におこなうようになった。
こうした背景もあり大卒理工系の定期採用は会社業績が厳しかった1992(平成4)年頃より毎年8名前後を継続採用し、人材も順調に育ち、富士重工業、技能五輪のCAD検定部門で2001(平成13)年頃より好成績を残すようになった。
技術立社

3)FPS活動とFPS活動
 SPS(スバル・プロダクション・システム)活動は富士重工業が地場企業の生産性向上を支援し企業体質を強化する活動として、1991(平成3)年1月にスタートした活動で、「生産性向上」「品質レベルアップ」「在庫削減」を柱とした取り組みで始まった。
 SPS活動が始まったこの年、富士重工業はパルサーを日産自動車から受託生産し、当社もパルサー部品を富士重工業へ納入していた。
 我が社のSPS活動への参加は1年半程遅れ、第3期報告会からの参加となった。当初の具体的活動取り組みは、工場見学やセル単位での職場改善指導であったが徐々に変わってゆき経営マネジメントの領域へと発展した。
 一方、FPS活動はSPS活動に対応するためにつけた当社活動のネーミングで、トヨタ生産方式をベースとした深井式生産方式(フカイ・プロダクション・システム)のことである。SPS活動への参加と同時に発足し、当社中長期経営計画「A21計画」でFPS活動を三本柱のひとつとして強力に推進した。
SPS活動では「もうかる5S」「5ゲン主義」「5定」「LCA」「手元化」などこれまで聞いたことのない言葉を勉強し工程設計や工程管理についても学んだ。
 これら活動の成果は生産性向上にはもちろん、品質のレベルアップ、在庫削減、物流、標準化など当社の成長に大いに役立ち、売上高の増大と収益力向上に大きく寄与した。

(5)バブル崩壊による売上高減とRE計画 【1991(平成3)年~1999(平成11)年 】 《会社動向》

1)得意先からの出向者受け入れ
 スタッフ人員も大月工場建設準備と事業拡大により不足気味となり、富士重工業より1991(平成3)年から1993(平成5)年の3年間に5名の出向者を迎え入れた。その後、現在に至るまで交替で出向して頂き、深井製作所の中枢として活躍頂いている。

2)売上高の激減
 高度成長のパブル崩壊が深井製作所へ現実的なものになったのは、1991(平成3)年11月、スクラップ価格下落(6~7円/㎏)からであった。
 この年の9月は、富士重工業のレガシィ、日産自動車のセドリック・グロリアは増産で昼休みに稼働する状況であった。経済企画庁も同じ9月、1986(昭和61)年12月からの景気拡大は58カ月となりいざなぎ景気を超えたと発表したが、その2カ月後であった。
 バブル崩壊は1992(平成3)年2月、富士重工業のレガシィ、レオーネの減産となった。日産自動車もこの年販売が低調となり、10、11月休みを増やし2、3月に出勤日を振り替える休出が行われた。
このように厳しさが増していく中、スバル梱包輸送に納入していたクレートが環境問題でリターン使用(1992年2月開始)となり総売上高の7%以上までになっていたが激減することになった。またレガシィの2代目フルモデルチェンジが1993(平成4)年に行われ、日米貿易摩擦改善で自動車部品の輸出規制が叫ばれる中、SIA生産部品は現地調達化となり当社から米国へ部品を送る必要がなくなってしまった。
 日産自動車においても生産分担変更により栃木工場で生産していたパルサーが1995(平成7)年3月九州工場に移管となり、当社のラインが勝山プレス工業(ユニプレス九州の旧名)へ移ることになった。
このような背景の中、全社一丸となって別表『新規取引一覧』に見られるように拡販につとめたが、売上の減った自動車部品の売上高確保はできず、別表『売上高推移』のとおり売上高は減少していった。
深井製作所50有余年の歴史の中、最大のピンチを迎えることになった。

3)RE計画と売上高70億円で利益のでる体質作り
 大月工場は1993(平成5)年の8月操業開始となった。土地の広さは約25万㎡(75,760坪)、工場建屋は116m×160m=18,560㎡(5,630坪)のスタートとなった。山の中腹にできた工場のため稼働当初は朝会社へ行くとカブト虫が沢山とれ、秋になればキノコも採れる自然環境豊かな工場であった。
しかしながら、大月工場への建設資金は銀行からの借入金であった。膨大な建設資金は借入金利息となり会社の大きな負担となった。
 すでに記したように、収入面ではバブル崩壊にともなう自動車メーカーの販売台数減、そして富士重工業・SIAの部品現地調達化による売上高減などが重なり、会社収支の両面で大変厳しい状況を迎えた。
 こうした会社状況を打開すべく取り組んだ経営計画が第1次合理化計画RE(RE-ENGINEERING)計画である。この計画は別表「RE計画の概要」のとおり、「RE計画PARTⅠ~Ⅴ」までから成り、5.5カ年の中長期経営計画となって展開された。基本的狙いと目標は「売上高70億円で利益のでる会社作り」で、「損失を阻止する」活動でもあり、賃金カットや雇用調整など大きな犠牲を払った取組みであった。
 このRE計画への取組みの成功がその後の中期経営計画に生かされ、また会社全員の力となったことは間違いのない事実である。
re01.jpg

4)大月工場への統合と本社移転
 RE計画の施策の一つとして工場の統廃合があり三つの大きな目的があった。一つ目は工場を空け売却し借入金を減らすこと、二つ目は工場と工場間を部品が移動していて余計な運賃を減らすことであった。三つ目として管理者が組織のうえで各工場を兼務し移動ロスが大きく時間のムダが発生していたことである。
 このような状況を改善すべく第1段として太田工場と新田工場を、大月工場への移管で空いた御厨本社工場へ1994年(平成6年)から翌年にかけ統合した。御厨本社工場の組立職場東側へ太田工場から移されたトラクターのロータリーカバーなどのクボタ部品が、西側に新田工場からきた米国オギワラ向け部品(OAC)などが職場レイアウトされた。
 この頃の御厨本社工場のプレス職場にはTRF1600t、600t、タンデムA、B、Cの各ライン、そしてB6ブランキング、PRG300tがまだ稼働し、加工部品を主に大月工場へ送っていた。
世相としては55年体制が崩れ1994年には羽田内閣(新生党)、村山内閣(日本社会党)がスタートしていた。
 借入金圧縮のため御厨本社工場の買い手先を探していた折、新田工場が御厨本社工場へ統合して数カ月後のこと、道路真向かいにあったアキレスから御厨本社工場を譲り受けたいという話しから始まった。話しはトントン拍子で進み、1966(平成8)年6月、翌年3月までに明け渡すことで決まった。1993(平成5年)年夏休みの初回大月移管は組立職場の移設であったが、今回の移管は御厨本社工場の閉鎖で、すでに述べた太田、新田工場の組立職場再移設、プレス職場のトランスフアープレス等の大型機械、そして工機工場の各機械の移設であった。日程的に大変厳しく移管プロジェクトが組まれアキレスとの定期的打合せを行いながら無事終了することができた。
 1997(平成9)年1月1日御厨工場から大月工場へ本社を移転した。
 1977(昭和52)年非量産部品の専門工場としてハンドワーク工業が分社し別れてから20年ぶりに昔の仲間が一つの工場のもとで再度働くことになった。
大月工場全景

(4)受注拡大とさらなる飛躍に向け大月工場の建設 【1989(平成元)年月~】 《会社動向》

1)受注品立上げラッシュ
 将来の飛躍のための3工場制は昭和天皇が崩御した1989年にスタートし、順調な工場稼働となった。農業機械部品としての太田工場、そして産業用機械部品をメインにした新田工場、それぞれ稼働まもなく職場スペースがなくなるほどになっていた。
 この頃、主力工場である御厨本社工場では、組立工場の西側一角を占めていたクボタの農業機械部品が太田工場へ移り、組立職場が空く方向にあった。当社としては当然自動車部品の積極的受注活動を展開し、富士重工業から新型車としてアルシオーネ、インプレッサを、山川工業からはこの時代を一世風靡した日産自動車のインフィニティ(Q45)を受注した。同時にこの時代ヴィヴィオ、セドリック、アトラス、マーチなど大型フルモデルチェンジの受注、また移管としての受注も数多くあり立上げラッシュとなった。
 なお1990(平成2)年頃の量産立上げまでの開発期間は普通乗用車で23~24カ月、軽自動車で20カ月ぐらいであった。製品図面はお客様よりまだ支給して頂いており、CAD/CAMの研修がお客様のところで開催されようとしていた。
アルシオーネ


2)大月工場の建設と稼働
 消費税3%が導入された1989(平成元)年から、軽自動車の規格改正(排気量660cc以下)が行われた1990(平成2)年にかけ御厨本社工場では、農業機械部品の太田工場移管にともない空き職場へ次々と新規受注やフルモデルチェンジによるラインが設置された。組立職場スペースは徐々になくなり、組立北側にあった完成品置き場も次々に組立職場へ変わっていった。
 組立職場スペースはそれだけでは足りず、クレート生産のため下屋を増築したりSIAへの出荷対応で御厨本社工場南へプレハブ倉庫を設置したりした。
 またこの頃、朝倉(福居町)倉庫や太田工場が植木野倉庫も借りていた。一方、組立職場が増えれば従業員も増加し、増える従業員の駐車場対策として御厨本社工場敷地南へ駐車場を拡張工事、そして大月への土地取得意思決定後であるが、1991(平成3)年7月には2回目となる駐車場南側のサービス金型の処分も行った。休憩所も足りず、昼休みには備品類の置いてあった食堂2階も開放するに至った。
 このような背景の中、御厨本社工場の2階化の検討、そして場所の選定では他の工業団地の紹介もあったが、希望する敷地面積に足りず1991(平成3)年4月に最終的意志決定として足利市大月町の鉱山跡地を足利市の仲介で取得することになった。
 大月工場建設から稼働までの責任者は君島所長が行った。君島専務取締役所長は、本田技研工業出身で荻原鉄工所より招聘し、1991(平成3)年大月工場用地取得と同時に就任した。君島所長の指導は世間で話題になるほどで毎朝7時からの職制会議と5Sによる即時徹底改善であった。
また、君島所長の大月工場建設にあたってのコンセプトは無人化であり、タンデムプレスのロボット化、組立ラインの直線コンベア化が1993年夏休みに完成し、同年10月大月工場落成式を迎えることとなった。
大月工場(建設中)
プレス500トンロボットライン

3)採用難にともなう苦心
 1990(平成2)年前半、仕事は確保したが作業者を手当するのが好景気で大変な時代だった。1992(平成4)年3月、当時定例会となっていた早朝職制会議で総務課長から有効求人倍率の話しがあり、①栃木県1.9倍、②足利2.03倍、③技能職6.79倍という状況であった。
また若者には当時流行語となっていた3K(きつい、汚い、危険)を嫌い製造の仕事は敬遠されがちであった。
 当然ながら中途採用・新卒者採用は難しく社内外注に依存する体質になっていった。協和パーツ(ジャブラスの旧名)、ヤマトなど南米日系人の人たちに自然と頼る結果となり、職場には日本語とポルトガル語で書かれた看板等が掲示されていた。
 こうした中、定期採用で正規従業員を確保しようと懸命な努力もした。まずは社内報『QUEST』(クエスト)の発行、そして「入りたい会社づくり委員会」、1991年には長年親しんだグレーの作業服からグリーンを基調とした新ユニフォームへと変わった。
旧ユニフォーム
新ユニフォーム

(3)悲願の売上高100億円の達成 【1988(昭和63)年~】 《会社動向》

1)レガシィと共に
 スポーティワゴン初代レガシィが富士重工業㈱で生産開始された1988(昭和63)年深井製作所創業50周年記念式典が開かれた。またこの年は瀬戸大橋の開通、東京ドームの完成やら高景気の年であった。
 レガシィの誕生は、翌年1989(平成元)年の1月23日に発表会が開催され、2月1日にレガシィシリーズとして発売された。
 深井製作所におけるレガシィは、メイン車種で当社売上高の20%以上を占め、その後の18年間当社メイン車種としての位置は変わらず、さまざまな形で会社経営に影響を及ぼした。
 当社『五十年史』でも触れているように、1981~83年(昭和56~58年)の3年間乗用車対米輸出自主規制が実施され、富士重工業㈱においても米国現地生産化となった。1989年9月SIA(Subaru Isuzu Automotive Inc.)として創業開始となり、当初は日本からレガシィの部品が約40日間かけ、船と貨車を利用してSIAへ送られ売上高増となった。
 レガシィはモデルチェンジを重ね、2003(平成15)年発売、4代目レガシィでカー・オブ・ザ・イヤーを受賞し名実ともに日本の名車入りを果たした。
初代レガシィ

2)太田・新田工場の稼働
 深井製作所創業からの50年は戦時中を除けば自動車部品と農業機械部品と共に生きてきたと言っても過言でない。
 戦後、冨士工業㈱(富士重工業の前身)からスクーター部品を受注、その後プリンス自動車工業㈱(日産自動車とその後1966年に合併)と取引を開始した。そして1969(昭和44)年には久保田鉄工㈱から農業機械部品を受注し、3本柱として企業活動してきた。
 当社売上高は、1980(昭和55)年まで第1次、第2次オイルショックによる業績悪化を農業機械部品の好調に支えられ順調に成長してきた。
 しかしながら、自動車産業では米国への自動車輸出が急増し、日米乗用車対米輸出規制が1981(昭和56)年合意決定し、168万台という輸出枠が決まった(乗用車対米輸出規制は昭和56年から3年間継続される)。一方農業機械業界においても1970(昭和45)年から始まった減反政策で米作の作付面積は年を追うごとに減少し、農業機械需要の回復は望めそうにない状況であった。売上高も1985(昭和60)年に金井車輪工業㈱(現在リンテックス㈱)からディスクフォイール、そして久保田鉄工㈱からグレンタンクの完成品を受注し、一時的に売上高がアップしたが毎年の着実なる売上高増につながらなかった。
 以上のような背景の中、売上高の落ち込みカバーが必要となり、建設機械や大型空調機等の産業機械部品への進出を決断するに至った。
 自動車・農業機械部品は開発方法、使用設備、作業熟練度などにおいて時間軸や管理方法などに違いがあり、損益管理も明確になるようこれまでの御厨本社工場のほかに太田工場(群馬県太田市)、新田工場(群馬県新田町)を1988(昭和63)年~1989(平成元)年に取得、稼働し3工場制を敷くこととなった。
太田工場新田工場

3)先代社長の悲願達成
 売上高100億円は当社の長年の目標であった。その話しは当社『五十年史』の中で1974(昭和49)年初代深井義信社長より「年商100億円を目指す100(いちまるまる)作戦が展開された」という記述がある。前年度第35期(昭和47年4月~48年9月)の売上高は約25億円であったとも書かれており並々ならぬ決意であったと思われる。
 太田工場、新田工場を加えた3工場制という成長戦略により産業機械部品として1988(昭和63)年~1991(平成3)年にかけ日立建機㈱、小松メック㈱(当社の関連企業ハンドワーク工業として昭和53年より取引あり)、富士重工業大宮工場、そして三洋電機については再取引開始となり、得意先が大きく増えることになった。
 一方、主力の自動車部品は、1989(平成元)年に発売されたレガシィの販売好調と、レガシィ部品をSIAへ送るための容器(クレート)をスバル梱包輸送㈱より受注することができ、売上高を大きく伸ばすこととなった。
 山川工業㈱(現ユニプレス㈱)においても1989(平成元)年~1990(平成2)年にかけ、新規受注部品としてG50(高級乗用車)カバコンを、またフルモデルチェンジとしてF31(追浜工場より栃木工場へ移管)、Y32(日産系受注主力車種)、H41(小中型トラック)部品が受注となった。
 このようにして長年にわたる全員の努力と、1989(平成元)年12月に記録した日経平均株価38,915円871銭という高景気にも支えられ、売上高が1990(平成2)年に102億円、1991(平成3)年に106億円と2年連続で長年の目標を達成することができた。
 この目標達成は100作戦の決意表明から16年目での悲願達成であり、初代深井義信社長が亡くなってから9年後のことであった。
クレート

(2)御厨工場での拡大 【1965(昭和40)年10月~】 《会社動向》

 初代深井義信社長は自動車工業界の趨勢を読みとり、その波に乗るべく折から足利市で開発した御厨工業団地へ第1号企業として、1965(昭和40)年会社創業より27年間馴れ親しんだ山辺から御厨(足利市福富新町)へ本社並びに工場を移設した。
 御厨への進出はこれまでの自動車部品に加えて農業近代化のなか1969(昭和44)年に農業機械部品の取引も久保田鉄工(現クボタ)と始まり、飛躍的な発展となった。
 1981(昭和56)年、初代深井義信社長が10ヶ月の闘病生活のあと下咽頭ガンで帰らぬ人となり、代表取締役会長に深井とみ、代表取締役社長に深井孟が就任した。
当社を取り巻く経済環境は戦後復興、そして高度成長と順調に推移してきたが、1970(昭和45)年より開始された米の減反政策、1973(昭和48)年のオイルショック、そして1981(昭和56)年の米国自動車輸出規制と、50年目を前に雲行きがあやしくなってきた。
《なお、この時期の詳しいことは既刊『深井製作所五十年史』を参照下さい。》

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