70年のあゆみ-概要

(2)ISOを基礎とした品質保証システム構築 【1996(平成8)年~】 《グローバルスタンダード》

 世界標準としてのISO品質保証システムとは企業における事業、特に品質管理がいかなる目的で、またどのような方法で行うべきかを文書化(P)・実行(D)の評価をし、その結果を確認(C)してより効果的なものとして行動(A)する。すなわち管理のサイクルと言われるPDCAサイクルを廻すことである。
会社ぐるみでISO導入キックオフ式が1996(平成8)年8月当社食堂において、得意先の御臨席の基で開催され、最後に参加者全員による「ガンバロー」コールで無事終了した。更に導入教育が行われ、「品質方針」(「品質第一で、顧客の満足と社会の信頼を得る」)が制定された。 
 初めて聞く言葉や横文字を目の前にして、誰もが拒絶反応を示し戸惑いを感じた。ISO規格については文章が難解で理解するには時間がかかった。ISOに関する文書は部長・課長などの管理者にパソコンが配給され、使い慣れないパソコンの使い方を勉強しながら作成した。何とか必要な決まりごと(ファイル5冊、340余文書)を揃えることができた。受審は得意先推奨であるTUV Rheinland Japan Ltd.(テュフラインランドジャパン株式会社)と言うドイツの認証機関であった。
 1997(平成9)年11月に予備監査、1998(平成10)年2月に認証監査が行われた。キックオフ式から1年8ヶ月をかけて平成10年4月に認証取得した。
ISO9001

(1)グローバルスタンダード化の時代背景 【1993(平成5)年~】 《グローバルスタンダード》

 日本国内の基準としてJIS(日本工業規格)があり、国内向けに製品を生産している間はこのJISで十分といえる。しかしながら、海外生産もしくは海外へ輸出する場合にはこの規格では通用しない。世界中どこでも適用できる基準に重点をおいたグローバルスタンダード(世界標準)を取り入れる傾向が顕著になってきた。
 得意先からは不良品を納入しないと言う要求から品質保証の仕組み作りに重点を置いた要求へと変化をしていった。納入不良に関してPPM管理が導入され、Aランクを維持するには10PPM以下が必要であった。当社も得意先からの要求に応えるために、深井製作所としての品質保証体制の構築(良い物作り・品質保証の仕組み作り)をして、お客様満足を向上する必要がある。
 そこで、1996(平成8)年4月にISO導入を決定しました。

(2)標準化への取り組み 【1991(平成3)年~】 《品質重視》

 品質に関する案件は当時品質を担当する品質管理課が担当し、製造する圧造課と組立課は物を作るだけと言った一部門だけの品質活動でした。会社全体で品質改善に取り組んでいこうという活動ではなかった。「あるべき姿」を目指して品質活動をしてきたつもりであったが、末端までの浸透が甘く全社一丸となった活動が出来ていなかった。
 得意先はいずれも品質を重要視して、品質体質改善を図るために品質保証体制の構築に力を入れていた。当社も得意先からの御指導により、品質に関する決まり事である標準書・基準書・管理基準等を決め始めた。具体的には、「不具合対策実施要領」・「異常処理ルール」・「再発防止管理基準」等の作成を行った。
 しかし、これらはいずれも不良が発生してからのものであった。

(1)製品品質のみ重視偏重 【1989(平成1)年~】 《品質重視》

 材料を加工して製品を作る際、当時の合否判定として製品とサンプル(または限度見本)とを比較して同等以上であれば合格としていた。最終製品である納入品については、得意先に不良品を納入させないということに重点を置いていた。製品の品質を追求していた時代であった。
 各自動車メーカーは乗員の安全を確保しつつ、燃費向上のための軽量化を図るために強くて軽い理想的な材料(ハイテン材、高張力鋼板)を使用していた。今までとは違う材料に戸惑い、不良が多発していた。
 得意先からの不良情報に関しては、その都度不良対策会議を実施して暫定対策を行っていた。
 得意先が増加し得意先からの要求や要望が多様化すると、当社ではそれらに対応出来る術(すべ)が十分ではなかった。
 得意先からの要求や要望というのは「異常が発生した場合の処理基準を定めなさい」、「量産初期の品質不良を無くすための特別品質保証体制を敷きなさい」。といった不良を未然に防ぐ体制作りを行うものであった。一方当社では不良が発生すると恒久対策に及ばず、暫定対策ばかりしていたというのが実状であった。言ってみれば「もぐらたたき」的な活動をしていた。
 それらを打破するために、深井製作所として品質保証体制の構築に向けての大きな一歩を歩み出した頃であった。この時代の話題と言えば、圧造職場では穴をたくさん開ける自動車の車体部品において、プレス成形工程での工程モレを確認するために木型で穴確認用の検査器具を作成した。又、組立職場では打点カウンター・高さ検知・シャッターの3点セットを組み合わせてオリジナルポカヨケを完成させた。このような発想も生まれ、今から見れば治具の始まりであった。
溶接風景

(4)品質向上活動が経営計画の一本の柱となる 【1982(昭和57)年~】 《昭和の品質管理》

 1979(昭和54)年に第二次石油ショックが発生した。更に日本自動車工業各社が輸出の拡大及び現地生産拠点への工場進出の最中であり、国際競争力強化はどのメーカーにとっても合い言葉となって企業力向上に必死であった。
 富士重工業が「R計画」(Rebuild)として協力工場21社に呼びかけたのがこの頃であった。この企業体力強化運動の柱は生産性向上活動であり、その一角に品質向上活動がハッキリ明示されていた。
社内教育計画の中に於いてもIEと並んでQCという文字が見られるようになり、企業体力強化には欠かせない位置を占めてきた。
 そして1984(昭和59)年に品質保証部と格上げされ、その後の富士重工業主導の「Q-UP作戦」にも強力に追従できる体制が整った。
プレス品を目視する作業者

(3)検査から品質管理への転換 【1971(昭和46)年~】 《昭和の品質管理》

 戦後の廃墟から立ち上がり家電業界や自動車産業を中心に高度経済成長時代が到来し、海外への輸出が急成長を遂げ始めたのは1955(昭和30)年後半の頃でした。更に1965(昭和40)年には国内でマイカーブームが始まり、同じ頃完成車輸入自由化という一大事も起こりました。  
 戦後アメリカから「統計的品質管理」が持ち込まれ、日本国内でもこの手法の研究が進められたのはその後間もなくでした。
 更に「全社的品質管理TQC」として日本中の主要企業において広がり始め、QCサークル活動などを含めた「日本的品質管理」として、欧米の「統計的品質管理」と一線を画すようになったのは1975(昭和50)年に入ってからのようであった。これら一連の品質管理に対する傾注が日本企業・日本製品の信頼向上に寄与し、海外への輸出拡大から更には世界中に生産拠点を広げて行くことにつながった。
 当社の組織の中に品質管理課という課名が見えたのは1971(昭和46)年のことであった。そして小集団活動グループが結成されQCサークル活動が活発となったのは、昭和50年代に入ってからのことであった。

(2)検査課への格上げ 【1966(昭和41)年~】 《昭和の品質管理》

 深井製作所の規模はモータリゼーションの波に乗って年を追う毎に拡大していき、この頃には富士重工業のスバル1000や軽貨サンバーなどに加えて、プリンス自動車工業(現日産自動車)のスカイラインやグロリア等の主要部品も受注拡大されていた。
 量の拡大・設備の増強・人員の増加などもあって、この時期に従来の検査係から検査課へと昇格して体制の強化が図られるようになった。既にこの時創業時の山辺工場から御厨工場に移転していた時であり、従業員も300名を超す規模となっており検査課長の下には係長が2名配置されていた。

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