70年のあゆみ-概要

(3)悲願の売上高100億円の達成 【1988(昭和63)年~】 《会社動向》

1)レガシィと共に
 スポーティワゴン初代レガシィが富士重工業㈱で生産開始された1988(昭和63)年深井製作所創業50周年記念式典が開かれた。またこの年は瀬戸大橋の開通、東京ドームの完成やら高景気の年であった。
 レガシィの誕生は、翌年1989(平成元)年の1月23日に発表会が開催され、2月1日にレガシィシリーズとして発売された。
 深井製作所におけるレガシィは、メイン車種で当社売上高の20%以上を占め、その後の18年間当社メイン車種としての位置は変わらず、さまざまな形で会社経営に影響を及ぼした。
 当社『五十年史』でも触れているように、1981~83年(昭和56~58年)の3年間乗用車対米輸出自主規制が実施され、富士重工業㈱においても米国現地生産化となった。1989年9月SIA(Subaru Isuzu Automotive Inc.)として創業開始となり、当初は日本からレガシィの部品が約40日間かけ、船と貨車を利用してSIAへ送られ売上高増となった。
 レガシィはモデルチェンジを重ね、2003(平成15)年発売、4代目レガシィでカー・オブ・ザ・イヤーを受賞し名実ともに日本の名車入りを果たした。
初代レガシィ

2)太田・新田工場の稼働
 深井製作所創業からの50年は戦時中を除けば自動車部品と農業機械部品と共に生きてきたと言っても過言でない。
 戦後、冨士工業㈱(富士重工業の前身)からスクーター部品を受注、その後プリンス自動車工業㈱(日産自動車とその後1966年に合併)と取引を開始した。そして1969(昭和44)年には久保田鉄工㈱から農業機械部品を受注し、3本柱として企業活動してきた。
 当社売上高は、1980(昭和55)年まで第1次、第2次オイルショックによる業績悪化を農業機械部品の好調に支えられ順調に成長してきた。
 しかしながら、自動車産業では米国への自動車輸出が急増し、日米乗用車対米輸出規制が1981(昭和56)年合意決定し、168万台という輸出枠が決まった(乗用車対米輸出規制は昭和56年から3年間継続される)。一方農業機械業界においても1970(昭和45)年から始まった減反政策で米作の作付面積は年を追うごとに減少し、農業機械需要の回復は望めそうにない状況であった。売上高も1985(昭和60)年に金井車輪工業㈱(現在リンテックス㈱)からディスクフォイール、そして久保田鉄工㈱からグレンタンクの完成品を受注し、一時的に売上高がアップしたが毎年の着実なる売上高増につながらなかった。
 以上のような背景の中、売上高の落ち込みカバーが必要となり、建設機械や大型空調機等の産業機械部品への進出を決断するに至った。
 自動車・農業機械部品は開発方法、使用設備、作業熟練度などにおいて時間軸や管理方法などに違いがあり、損益管理も明確になるようこれまでの御厨本社工場のほかに太田工場(群馬県太田市)、新田工場(群馬県新田町)を1988(昭和63)年~1989(平成元)年に取得、稼働し3工場制を敷くこととなった。
太田工場新田工場

3)先代社長の悲願達成
 売上高100億円は当社の長年の目標であった。その話しは当社『五十年史』の中で1974(昭和49)年初代深井義信社長より「年商100億円を目指す100(いちまるまる)作戦が展開された」という記述がある。前年度第35期(昭和47年4月~48年9月)の売上高は約25億円であったとも書かれており並々ならぬ決意であったと思われる。
 太田工場、新田工場を加えた3工場制という成長戦略により産業機械部品として1988(昭和63)年~1991(平成3)年にかけ日立建機㈱、小松メック㈱(当社の関連企業ハンドワーク工業として昭和53年より取引あり)、富士重工業大宮工場、そして三洋電機については再取引開始となり、得意先が大きく増えることになった。
 一方、主力の自動車部品は、1989(平成元)年に発売されたレガシィの販売好調と、レガシィ部品をSIAへ送るための容器(クレート)をスバル梱包輸送㈱より受注することができ、売上高を大きく伸ばすこととなった。
 山川工業㈱(現ユニプレス㈱)においても1989(平成元)年~1990(平成2)年にかけ、新規受注部品としてG50(高級乗用車)カバコンを、またフルモデルチェンジとしてF31(追浜工場より栃木工場へ移管)、Y32(日産系受注主力車種)、H41(小中型トラック)部品が受注となった。
 このようにして長年にわたる全員の努力と、1989(平成元)年12月に記録した日経平均株価38,915円871銭という高景気にも支えられ、売上高が1990(平成2)年に102億円、1991(平成3)年に106億円と2年連続で長年の目標を達成することができた。
 この目標達成は100作戦の決意表明から16年目での悲願達成であり、初代深井義信社長が亡くなってから9年後のことであった。
クレート

(2)御厨工場での拡大 【1965(昭和40)年10月~】 《会社動向》

 初代深井義信社長は自動車工業界の趨勢を読みとり、その波に乗るべく折から足利市で開発した御厨工業団地へ第1号企業として、1965(昭和40)年会社創業より27年間馴れ親しんだ山辺から御厨(足利市福富新町)へ本社並びに工場を移設した。
 御厨への進出はこれまでの自動車部品に加えて農業近代化のなか1969(昭和44)年に農業機械部品の取引も久保田鉄工(現クボタ)と始まり、飛躍的な発展となった。
 1981(昭和56)年、初代深井義信社長が10ヶ月の闘病生活のあと下咽頭ガンで帰らぬ人となり、代表取締役会長に深井とみ、代表取締役社長に深井孟が就任した。
当社を取り巻く経済環境は戦後復興、そして高度成長と順調に推移してきたが、1970(昭和45)年より開始された米の減反政策、1973(昭和48)年のオイルショック、そして1981(昭和56)年の米国自動車輸出規制と、50年目を前に雲行きがあやしくなってきた。
《なお、この時期の詳しいことは既刊『深井製作所五十年史』を参照下さい。》

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(1)山辺工場からの出発 【1938(昭和13)年10月~1965(昭和40)年9月】 《会社動向》

 企業は時代の流れに上手に乗りながら永続発展して行くと言われます。
 足利は戦前『足利銘仙』で全国に名を知られ繊維の町として繁栄したが、今やノコギリ屋根が象徴の繊維工場はほとんど見られなくなった。
 当社は、1938(昭和13)年軍事体制下、飛行機の治具・部品の製作工場として山辺(足利郡山辺町)の地で操業を開始し、戦後は平和産業へ転身、日用雑貨品などの生産からスタートした。
その後、スクーター・自転車部品で社業発展の糸口をつかみ、朝鮮動乱による活況の中、金型・治具製造工場からプレス部品主体の生産工場へと拡大していった。
1959(昭和34)年頃になると、各自動車メーカーは小型車を相次いで市場に投入し、モータリゼーションの幕開けとなった。
 富士重工やその他自動車メーカーとの取引も順調に拡大し、手狭さと環境問題から、山辺工場から御厨工場への移転を余儀なくされた。
《なお、この時期の詳しいことは既刊『深井製作所五十年史』を参照下さい。》

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(3)深井経営管理システムの浸透と定着 【2005(平成17)年~】 《経営管理》

 TSを一つのツール(手段)として日常業務への活用が始まり、深井経営管理システムが運用された。会社全体の業務はTSに従って実行され、その実績は毎年評価される仕組みになっている。TSを基に全ての業務が流れる。会社全体の運用面について、簡単に説明すると以下のとおりになる。
 ①経営方針・品質方針とその他の情報を基に中期経営計画(案)が作成され、本部長会議を経て役員会で承認される。
 ②承認された中期経営計画を基に各本部は単年度の本部目標・施策を作成する。
 ③本部目標・施策を基に本部内会議を経て、各部課の目標・施策が作成され、課員に展開される。
 ④管掌役員は各部課の目標・施策に対する実施・進度状況を確認して、結果報告の評価をする。
 ⑤各本部・部課は目標と実績との差異分析処置をする。
 ⑥各本部・部課は年度反省をして、次年度の経営計画へ反映される。

  ①~⑥を毎年繰り返すことにより、継続的改善が図れる。
※ ⑤は次年度の本部目標・施策へフィードバックされ、
※ ⑥は経営方針・品質方針へフィードバックされる。
 これらが出来るようになったことで、製造品質のみならず飛躍的経営管理の改善が見られるようになった。

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(2)経営管理システムへの移行 《経営管理》

 QS規格からのアップグレードとして、ISO9001:2000年版への移行が急がれた。当初移行計画は第1段階として、ISOに移行してからQSの後継と言われていたTS16949(※2、以後TSと呼ぶ)への移行を目指していた。課長以上の管理者を対象としたISO導入教育のために、講師をお願いしていたコンサルタントと今後の話し合いをしていた時であった。コンサルタントから「この際一気にTSに移行したらどうですか」と提案があった。直ちにその旨をトップに伝え、トップからの承認も得られた。最終的にはTSへの移行時期が早いか遅いかの違いだけであった。
 TS導入マスタープランを2003(平成15)年8月に策定し、品質マニュアル・手順書の構築、内部品質監査・マネジメントレビューの企画・実施と着々と監査に向けた活動が開始された。認証機関はISO・QSと同じくTUV Rheinland Japan Ltd.(テュフラインランドジャパン株式会社)で、主任監査員はQSと同じくフィッシャー氏であった。2004(平成16)年3月の予備監査と同年7月の認証監査を経て、9月に認証取得した。
ISO・QSと二つのシステムを構築した経験が活かされ、スタートより一年余りのことであった。
ISO/TS16949認定書f
TS導入教育
TS監査、プラズマ溶接現場
TS監査、クロージングミーティング

(1)QS顧客要求事項の課題 【2003(平成15)年~】 《経営管理》

 品質は1990年代と比較すると、はるかに向上してきた。なぜならば、ISO・QSと二つの品質保証システムを構築させ、不良を発生させない仕組み作りが効を奏したからである。得意先を取り巻く環境も一段と変化をしてきており、10年前には納入不良月10個でワーストメーカーの指定を受けることはなかったが、2003(平成15)年頃から月2,3個でもワーストメーカーに指定されるようになった。
 QS規格は2004(平成16)年12月迄に消滅することが判明し、この際アップグレードする意味で別のシステムへ移行する必要性が出てきた。得意先のニーズに応えるためにもバラツキのない品質、ジャストインタイムのような納期管理などに関してキメの細かさが必要であった。
顧客への納入品質実績(不良個数)

(3)自動車産業規格の選択 【1998(平成10)年~】 《グローバルスタンダード》

 ISO9001の品質保証システム運用がいよいよスタートした。
 顧客納入不良実績を記録するのにパーセントからPPM表示に変化してきた頃であった。個々の不良は減少してきたものの、品質保証体制として満足が得られるものではなかった。ISOは様々な業種が利用出来る汎用的な品質保証システムの構築に重点がおかれていて、自動車部品業界には十分でなかったからである。
 具体的には製品に関する品質計画の指針を示すもの(APQP)や量産初物に関する顧客の承認取得手順(PPAP)が欠けていたからである。
 得意先である富士重工業が1999(平成11)年12月に米国GM(ぜネラル・モーターズ)と資本・業務提携に伴って、QS-9000(※1、以後QSと呼ぶ)に基づく要求事項へと変化した。汎用的な品質保証システムであるISOから得意先推奨であるQS導入を2001(平成13)年4月に決定した。
 QSは米国自動車業界を取り巻く全世界に普及しており、当社にとってはこの上ない品質保証システムであった。同年8月に導入キックオフ式が当社食堂で開催され、参加者全員で取り組むことで終了した。富士重工業次期車(立上り2003(平成15)年5月予定)スバル・レガシィの量産に向けて認証取得することを誓った。
 一度品質保証システムの構築をした経験はあるものの、ISOとは比較にならないほど理解しにくい要求事項であった。認証機関はISOと同じくTUV Rheinland Japan Ltd.(テュフラインランドジャパン株式会社)で、主任監査員としてドイツ人のフィッシャー氏が来足した。監査員の英語を通訳の方が訳しながら監査は進められた。聞き慣れない英語に不安と戸惑いを感じながらも、2002(平成14)年9月の予備監査と同年11月の認証監査は終了した。2003(平成15)年1月に認証取得した。
QS-9000

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