70年のあゆみ-概要

(2)大月工場建設と人員増加活動・人事交流 《人事・安全・環境》

1)受注増加・大月工場建設にともなう人員増加計画 1990(平成2)年~1993(平成5)年
 1989(平成元)年は、大きいできごとがあった年であった。
 1月17日に昭和天皇が崩御し、年号が昭和から平成に変わった。
 アメリカでは、同月21日にブッシュ政権がスタートした。4月に消費税(3%)が施行され、6月には昭和の国民的歌手美空ひばりが死去した。11月には、ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一に向かった。12月29日日経平均株価が史上最高値の38915円87銭を記録した。これを最後に株価は下落へ転じ、バブル景気は崩壊へ向かっていった。
 しかし、深井製作所は3工場体制(御厨工場、太田工場、新田工場)による産業機械部品の新規顧客の増加、さらに自動車部品の新規部品などの受注増にともない、現在と将来を担ってゆく人員を増加することになった。1.5倍にする人員計画であった。
 つまり従業員300名を450名に増員するというものであった。ところが当時は、『会社動向』で記したようにバブル景気を背景に、製造業は3K業種(きつい、汚い、危険)ともいわれ若い人から敬遠されていたこともあり、大変な採用難で若い人を増加するためには特別に戦略を考える必要があった。そこで考えられたのが、どうすれば若い人が会社に入る気になるかを検討する『入りたい会社づくり委員会』の設置と、大学・高校に採用を働きかけるプロジェクトチーム『採用本部』の設置であった。

①『入りたい会社づくり委員会』の設置・活動 1990(平成2)年~1991(平成3)年
 『入りたい会社づくり委員会』が設置されたのは1990(平成2)年5月のことであった。
 委員会は、委員長を柿村常務(当時)がつとめ、委員は組織と関係なく各年代から2名ずつ計10名が選出された。これに労働組合委員長が加わった。活発な議論がされた。新ユニフォームの改善、社内レンタカー、個人が旅行するときの会社負担、Jリーグの年間ボックスシートの契約、車を購入する際の資金の貸付、それから新工場構想まで検討がされた。
 これらはさらに検討がされ逐次実現することになった。ユニフォームは1991年から冬用・夏用さまざま考案され実現した。何種類かある中から個人個人の好みで選べる新しい考え方であった。冬用の上着は薄いベージュのものからグリーンを基調とするものに替わった。エピソードがある。冬用のブルゾンのユニフォームを着たままスーパー やホームセンターに入るとよく店員に間違えられた。ユニフォームは種類が多く管理も大変だった。その後種類も改善され現在に継続されている。
 社内レンタカーは1992(平成4)年4月からスタートした。家族や友達仲間で利用できるように8人乗りのキャラバン”フウライボウ”、スポーツカータイプのSVXが選ばれた。後にフォレスター(アウトドアー向けSUV)も加わり3台となった。社員に好評で土日曜は常に予約が入っていた。
フウライボウ

 旅行は宿泊すると会社がその費用を一部負担する制度ができた。
 1991年に(社)日本プサッカーリーグとして設立されたJリーグは、これまでメジャープロスポーツといえばプロ野球やプロゴルフ、大相撲くらいしかなかったが、にわかにサッカー人気が沸騰した感があった。1993年には「Jリーグ」は流行語大賞になった。
 Jリーグ設立当時は10チームであった。重要な得意先であった日産のJリーグ横浜マリノスの年間ボックスシートの利用は、水曜と土曜であったが好評でいつも抽選をおこなうほどであった。
 車購入資金の貸付は、利息に便宜を図って車を買えるようにした。1991(平成3)年12月に制度化し、後には社員だけでなく、入社前の新入社員にも適用を広げ、現在でもこの制度はよく利用されている。
これらは会社にはこれまでいずれもなかった制度であったが、とりわけ画期的なものが会社PR誌の発行であった。誌名は『QUEST』(クエスト)(B5判)。1年に4回の発刊で決まった。
QUEST

 会社のメンバー6名とデザイン業者の合同製作で案を双方で出し合いながら作っていった。発行部数は800部、仕上がると近在の大学生高校生にダイレクトメールした。『QUEST』は社員や職場紹介・製品説明・イベント・『入りたい会社づくり委員会』で行っていることなど、あらゆる誌面に工夫を凝らした雑誌であった。面白いと高校生の父兄には好評で、他社にも評判となった。『入りたい会社づくり委員会』の活動の様子は、1991年6月13日(木)PM6:10からNHK「首都圏イブニングネットワーク」で放映された。
入りたい会社づくり委員会

②採用本部の設置・活動 1991(平成3)年~1993(平成5)年
 採用本部は直接大学、高校に採用を働きかけるプロジェクトチームであった。これまで新卒採用は総務担当が1~2名があたっていたが、この採用本部は役員を含め5名体制の専属チームであった。
 1991(平成3)年~93(平成5)年9月の期間活動した。3年間で150名の新卒採用の使命を帯びていた。学校訪問には若者受けを考え日産車のシルビアを利用した。前述した『QUEST』も活用した。
 1991年の新入社員は1名であった。『入りたい会社づくり委員会』や、この採用本部の活動で、1992(平成4)年の新卒者は31名、’93年は39名、’94年は20名となった。
 目標の150名には及ばなかったものの成果は歴然としていた。

2)大月工場建設後の人事交流 1991(平成3)年~2008(平成20)年
 新卒者増加の採用活動を活発におこなっている一方、大月工場建設準備や受注増加にともない管理スタッフ人員が不足してきたため人材を外部に求めることになった。
 大月工場建設から稼働までの責任者として、1991(平成3)年2月1日、元本田技研工業出身の君島行男氏が大月工場所長(専務取締役)に就任した。以降、今日に至る約20年間にわたり過去に例がないほど外部の多数の方々が深井製作所の発展に力を注いでいただいた。
 富士重工業、日産自動車栃木工場、日産ディーゼル、三洋電機、足利銀行など顧客各社の方々が、工場建設、プレス組立製造部門、プレス保全部門、生産管理改善およびFPS、金型工機・設備治具部門、技術開発、品質保証部門、経営財務部門で、各部門の強化・充実・発展あるいは後継者育成等に尽力され、深井製作所の基盤づくりと発展のために足跡を残され、あるいはまた今日も活躍されております。

(1)会社創立から50年間 【1938(昭和13)年~1987(昭和62)年頃】 《人事・安全・環境》

1)創業時 1938(昭和13)年~1964(昭和39)年頃
 会社創立当時(足利郡山辺町八幡)の1938(昭和13)年10月は、従業員数は11人であった。戦時下のことであった。その後深井製作所は、軍需産業として、中島飛行機(株)からの発注量に対応するため、’41(昭和16)年の25人、’42(昭和17)年には33人に、’43(昭和18)年には46人に、そして’44(昭和19)年には64人に増加していった。戦後インフレのあとの不況のなか、’49(昭和24)年には、従業員は16人に減った。心機一転を図り、5月には四万温泉へ初めての慰安旅行を実施した。
この頃工場の周辺はまだ一面たんぼで道路も砂利道であった。通勤は近在の人がほとんどであったため、徒歩か自転車であった。納品もオート三輪車であった。
 昭和30年代のモータリゼーションの流れに乗り、ラビットスクーターや日産スカイラインの好調から急成長し、1960(昭和35)年の決算期には、初めて売上高が1億円の大台にのった。 1961(昭和36)年に従業員は100人を越えた。

2)山辺工場から御厨工場へ 1965(昭和40)年~1967(昭和42)年
 そしてこのあとも成長は続き、手狭になった創業地山辺工場から1965(昭和40)年に、足利市内の福富新町に御厨工場を新設し従業員も200人を突破した。この頃の通勤事情としてマイカーの人はほんのわずかで、ほとんどの人がバイク・自転車であり太田方面在住の人の中には電車通の人もいた。前の工場が東武伊勢崎線山辺駅近くにあったときは電車通の人は困らなかったが、御厨新工場に移転してからは最寄りの駅は東武和泉駅となり駅から歩いて通うには遠すぎた。
 そこで会社から大型バスとマイクロバスをだして通勤の便を図った。大型バスは国鉄足利駅と東武足利市駅をまわり、マイクロバスは東武和泉駅を往復して従業員の足の替わりを勤めた。このバスは昭和50年代の中頃まで続いた。しかし、この頃は「東武和泉駅からのこの道は、一雨降るごとに穴だらけの水溜まりと化し、だれが修復してくれるでもなく、2トントラックに積んだ製品は、荷擦れ・へこみ・変形の続発で、」「電気を引くにも自己負担で電柱を建て、水道は無く井戸水での対応は水質が悪く、100メートル掘った地下水もマンガン含有が多く、お茶は黒くなるし水垢で冷却水のパイプが細くなって冷却不能になり、スポット剥れが発生するなど」(『深井製作所五十年史』より)、新環境のスタートは大変だったようだ。

3)人員増加と新たな福利厚生 1968(昭和43)年~1977(昭和52)年
 創立30周年を迎えた1968(昭和43)年には、従業員数は300人になった。人員が300人を越え、管理体制を強化する必要性から同年1月に資格制度が設けられた。現在から見ると、役員兼部長級が参事、課長級の主事、係長級に技工という資格名であった。
 また同年末、従業員を何より重んずる前社長の発意により永年勤続者、健康優良者を対象とする第1回従業員表彰が行われ働く意欲向上につなげた。
 1970(昭和45)年に入って家族寮と独身寮が新築され、福利厚生面の前進が見られた。1973(昭和48)年は、社内行事、出来事が目白押しに行われた。ボーリング大会(1月、3月、6月)、卓球大会(2月)、潮干狩り(4月)、海外研修(4月)、慰安旅行(4月)、植木展示交換会(6月)、奨学金制度制定(定時制通学者、7月)、軟式野球大会(7月)など。この頃はこういった行事が盛んにおこなわれていた。1973(昭和48)年10月の石油ショックによる直接的な衝撃を深井製作所は免れたが、従業員の増加による人件費の増大にともなう収益力の低下の不安があった。  
 1977(昭和52)年には従業員が419人になった。(75年の新入社員は71人の創業以来最多採用、76年は15人、77年は40人)。
先代深井義信社長による第一回従業員表彰
先代深井義信社長による第一回従業員表彰

4)人事管理制度の夜明け 1978(昭和53)年~1986年(昭和61)年
 1978(昭和53)年末からの第2次石油危機による石油価格の高騰で、再度インフレから不況へ陥り景気は一気に冷え込んだ。深井製作所も83年頃まで低迷が続いた。     
 合理化活動に立ち上がった。1980(昭和55)年から、能力主義を内容とする新人事管理制度確立への具体的な動きが始まり、1982年に至って「作業等級規定」、「賃金規定」および「資格規定」が制定され社内展開された。管理制度の改革や管理者教育にも熱が入った。経済情勢は’84年、’85年になってようやく回復が見られ始め、深井製作所も伸びを示した。
 人事管理制度は、その後専門家の助力を得て、’86年4月「職能資格制度」と改称し新制度が誕生した。今日の人事管理制度の基礎となった。

(8)新たな目標に向かって 【2008(平成20)年】 《会社動向》

 日々刻々と時を重ねる中、2008(平成20)年になり我が社も70年目を迎えた。
 70年前は、SFの世界と思われていた宇宙基地が現実のものとなり、日本として初めての有人宇宙施設「きぼう」が設置された。
 また、同じ月の新聞に一時国有化されていた当社のメイン銀行「足利銀行」が野村陣営に譲渡されることが報じられていた。
 さて我が社は現在展開中の中期経営計画「S-5計画」が4年目の終わりを迎える中、70年目の節目の年となった。「S-5計画」のメイン経営目標は“売上高150億円の確保”であったが、4年目の今年これまで努力してきた技術開発、拡販活動、そして新車立ち上がり(インプレッサ、フォレスター、アコード他)などにより1年前倒しして売上高168億円の達成となった。同時に企業体質も皆の知恵と汗により改善され、確実に利益が出せるようになった。
 世間に目を向けると、昨年中盤頃まで順調に推移してきた世界経済も、米国のサブプライムローン問題から減速傾向が見られ、今の経済は世界が一本化しつつあることを強く感じる。
 他にも、国内外は地球環境問題、少子化、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の台頭などさまざまなことが絡み合って複雑化している。

 いつの時代も将来を予測することは難しい。しかし、これからも世の中の潮流を的確に見極めお客様の満足を最優先し、全社一丸となって新たな目標に一歩一歩愚直に前進して行かねばならない。『ゴーイングコンサーン』

(7)企業体質強化と目標売上高150億円への取り組み 【2004(平成16)年~2007(平成19)年】 《会社動向》

1)S―5計画と体質強化
 当社の中期経営計画、過去2回を返り見ると、まず「RE計画」では利益のでる経営体質改善を目指して取り組み予定どおり最終年度で利益を出すことができた。引き続き取り組んできた「A21計画」では“守りの経営から攻めの経営”ということで活動し、技術開発では新技術が得意先に採用され売上高増に大きく寄与し、FPS活動では品質向上、生産性向上、在庫削減などにおいて大幅なレベルアップができた。それら経営成果として常に目標を超える利益が出せるようになった。
 以上のような時の流れの中、更なる企業体質強化のための中期経営計画「S―5計画」が2004(平成16)年4月スタートした。この年は大地震のあった年で10月には新潟中越地震、12月にはスマトラ沖大地震、インド洋津波で死者が23万人を越えた。
 一方良い話では翌年3月組立課、原芳男さんの次女裕美子さんが名古屋国際女子マラソンで優勝し会社が沸いた。
 さらに「S―5計画」は、高効率経営と業界トップレベルを目指したもので立案に当たっては、役員研修会を半年にわたって開催し、これまでにない計画となって売上高150億円めざし展開された。
「S-5計画」ボード

2)遊休資産の整理
 S-5計画の始まった2004(平成16)年になると、世の中の経済情勢も大分変わってきた。すでに記しているようにバブル崩壊を深井製作所はスクラップ価格の下落(6~7円/㎏)で知ったが、2004年3月には20円/㎏の声を聞き、5月には原材料値上げの話しが出るまでになった。要因は中国経済の高度成長によるもので日本を含め世界経済が活発化したことによるものである。
 日本経済の好転にともない売りに出ていた遊休資産に声がかかるようになった。まずはRE計画の時から売りに出していた国道50号沿いの独身寮跡地が、2005年9月大手不動産会社を通じ売却し住宅展示場となった。一つ決まると次々に決まり新潟県五智の保養所が同年11月に、群馬県猿ヶ京保養所の建屋と土地が2006年11月に決まり1年程の間に3件の遊休資産を売却することができた。また関連会社であるサン運輸が足利市内野田トラック団地の事務所と土地が2006年2月売却された。
 遊休資産の処分は、RE計画からの経営課題であったがこのような形で10年後のS―5計画で関係者全員のさまざまな努力と経済環境変化により解決に至り、大幅な財務体質改善に寄与した。
独身寮猿ヶ京保養所

3)将来に向けての取り組み
 当社業績はA21計画の終わり頃より安定し、売上高も130億円前後で推移するようになった。しかし得意先からの原価低減要求はとどまることなく続き、対応に苦慮しつつも将来の発展を見据えた取り組みがどうしても必要となった。
 まず人的な取り組みとして、2006(平成18)年10月執行役員制度を導入した。導入の目的は次期取締役候補の育成を図ることであった。教育面では「企業は人で成り立つ」との観点より教育委員会を発足させ、2年余りの検討を経て社内教育制度の大改訂を2007年実施した。
 さらに2004年10月より、取り巻く環境のグローバル化、そして海外出張の増加をうけ、社内英会話講座を開講し現在も続いている。また現業部門のレベル向上策として2005年より国家技能検定への取り組みも開始し、翌年に合格者がでるまでになっている。
 設備面では、今後さらに進むことが予想される車体軽量化にともなうハイテン材の加工設備として、トランスファープレス2700tを2005年12月導入した。高額投資であり、早期なフル操業を全員で取り組む必要がでてきた。
 また組立職場スペース不足解消のため同年10月駒場工場取得と同時に、大月工場西側にあった設備治具の制作組立職場を駒場工場へ移管し稼働を開始した。
今後もハード・ソフト両面はもちろんあらゆる角度から、先手でこの課題に取り組み経営目標の達成に努めなければならない。
英会話講座駒場工場(足利市駒場町)

4)品質管理システム導入による経営管理システムの強化
 今日、企業の淘汰そして第2次産業の減少が進む中、製造業として70年目を迎えることができ、まずはお客様にお礼を申しあげたいと思います。お客様を大切にする心は当社社是『三高三喜』にもありますが品質管理システムの原点でもあります。
 当社の品質管理システムはISO9000で始まった。グローバルスタンダードの流れの中、富士重工業より1995(平成7)年説明と同時に導入要請があり、認証取得に向け翌年活動がスタートした。
 まず指導のコンサルタントより「インプット」「アウトプット」の勉強から始まった。悩み苦しみながらのISO9000導入、維持向上であったがステップアップとしてQS9000への取り組み、そしてQS9000が廃止されるということでTS16949への更なるチャレンジで当社の経営管理システムは着実に向上していった。今や品質管理システムTS16949を基軸とした経営管理をシステムとして構築するまでになった。
 しかし認証機関のテュフラインランド(TUV)による外部監査において指摘事項が毎回数多く出され課題が多いことを物語っている。システム運用にたずさわる一人一人のさらなる研鑽と一部のひとに頼らないで全員で取り組む体制の早期実現を目指しているところである。
足利商工会議所ニュース

(6)守りの経営から攻めの経営に 【1999(平成11)年~2004(平成16)年 】 《会社動向》

1)A21計画と収益力向上
 1990年代初めにバブルが崩壊し日本経済は落ち込んだが、10年経過した2000(平成12)年になっても景気は回復せず、公示時価は連続下落、完全失業率も5%後半で推移した。 
 金利もこれまで経験したことのないゼロ金利政策のスタートとなり、銀行問題も表面化、当社のメイン銀行である足利銀行が2003(平成15)年11月経営破綻し国有化となった。
 そうした環境の中、当社の業績は第1次合理化計画RE計画後半には徐々に改善し第2次合理化計画A21計画へと引き継がれた。売上高は54期(1992年9月期・平成4年9月期)以来連続して減少したが、RE計画の中間となる58期(1996年9月期・平成8年9月期)に71億円でストップし、その後徐々に回復、A21計画の最終年度となる66期(2004年3月期)にはA21計画のさまざまな取り組み(別表、『A21計画の概要』」)が実を結び、136億円の売上高を確保するまでになり収益力も向上した。
A21計画ワッペン

 A21計画の好結果はさまざまなところに現れた。
 一つ目として県労働局(快適職場認定)表彰、富士重工業からは貢献賞・品質優秀賞を受賞、そしてユニプレスからも特別賞を受賞した。
 また2002(平成14)年4月には、深井社長が富士重工業から「材料プレス部品部会」の部会長就任要請があり部会活動に尽力した。そして2002(平成14)年11月に富士重工業の田中会長、2003(平成15)年5月にはユニプレスの寺田会長、鳥海社長が来社され激励の言葉を頂いた。
富士重工業田中会長(中央)ユニプレス寺田会長(右から3人目)、鳥海社長(右から2人目)

2)技術立社
 『技術立社』、社長がRE計画最終年度に当たる1998(平成10)年4月経営活動スローガンとして表明した。
 我々の物づくりは源流で決まると言われています。源流とは、広義ではいろいろありますが狭義では製品設計、工程設計そして生産設備です。源流における基本は何といってもさまざまな技術力ということになり、品質、コスト、生産性などの良し悪しがすべて決まります。
 一方、我々自動車部品業界の中の板金部品会社はメーカーから図面を頂くことが受注であり、図面どおりの部品を作ることが技術であり物づくりであった。拡販活動はいかに同業他社より多くの図面を頂くかという構図となっていた。
 こうした業界動向の中、自動車メーカーも開発車の増加やコスト削減による工数不足で我々部品メーカーに製品設計の要請が出るようになり、ゲストエンジニアということで部品メーカー技術員が自動車メーカーへ出向き製品設計するようになった。最初のゲストエンジニアは富士重工業へ1994(平成6)年新型車対応として出向した。その後、1996年以降は部品受注のためにはゲストエンジニアは不可欠な時代となり、富士重工業を初めユニプレス等の自動車メーカーや部品メーカーへ技術員を駐在させ拡販活動を行う時代となった。
 また、提案企業として新技術・新工法・新製品のプレゼンテーションを積極的におこなうようになった。
こうした背景もあり大卒理工系の定期採用は会社業績が厳しかった1992(平成4)年頃より毎年8名前後を継続採用し、人材も順調に育ち、富士重工業、技能五輪のCAD検定部門で2001(平成13)年頃より好成績を残すようになった。
技術立社

3)FPS活動とFPS活動
 SPS(スバル・プロダクション・システム)活動は富士重工業が地場企業の生産性向上を支援し企業体質を強化する活動として、1991(平成3)年1月にスタートした活動で、「生産性向上」「品質レベルアップ」「在庫削減」を柱とした取り組みで始まった。
 SPS活動が始まったこの年、富士重工業はパルサーを日産自動車から受託生産し、当社もパルサー部品を富士重工業へ納入していた。
 我が社のSPS活動への参加は1年半程遅れ、第3期報告会からの参加となった。当初の具体的活動取り組みは、工場見学やセル単位での職場改善指導であったが徐々に変わってゆき経営マネジメントの領域へと発展した。
 一方、FPS活動はSPS活動に対応するためにつけた当社活動のネーミングで、トヨタ生産方式をベースとした深井式生産方式(フカイ・プロダクション・システム)のことである。SPS活動への参加と同時に発足し、当社中長期経営計画「A21計画」でFPS活動を三本柱のひとつとして強力に推進した。
SPS活動では「もうかる5S」「5ゲン主義」「5定」「LCA」「手元化」などこれまで聞いたことのない言葉を勉強し工程設計や工程管理についても学んだ。
 これら活動の成果は生産性向上にはもちろん、品質のレベルアップ、在庫削減、物流、標準化など当社の成長に大いに役立ち、売上高の増大と収益力向上に大きく寄与した。

(5)バブル崩壊による売上高減とRE計画 【1991(平成3)年~1999(平成11)年 】 《会社動向》

1)得意先からの出向者受け入れ
 スタッフ人員も大月工場建設準備と事業拡大により不足気味となり、富士重工業より1991(平成3)年から1993(平成5)年の3年間に5名の出向者を迎え入れた。その後、現在に至るまで交替で出向して頂き、深井製作所の中枢として活躍頂いている。

2)売上高の激減
 高度成長のパブル崩壊が深井製作所へ現実的なものになったのは、1991(平成3)年11月、スクラップ価格下落(6~7円/㎏)からであった。
 この年の9月は、富士重工業のレガシィ、日産自動車のセドリック・グロリアは増産で昼休みに稼働する状況であった。経済企画庁も同じ9月、1986(昭和61)年12月からの景気拡大は58カ月となりいざなぎ景気を超えたと発表したが、その2カ月後であった。
 バブル崩壊は1992(平成3)年2月、富士重工業のレガシィ、レオーネの減産となった。日産自動車もこの年販売が低調となり、10、11月休みを増やし2、3月に出勤日を振り替える休出が行われた。
このように厳しさが増していく中、スバル梱包輸送に納入していたクレートが環境問題でリターン使用(1992年2月開始)となり総売上高の7%以上までになっていたが激減することになった。またレガシィの2代目フルモデルチェンジが1993(平成4)年に行われ、日米貿易摩擦改善で自動車部品の輸出規制が叫ばれる中、SIA生産部品は現地調達化となり当社から米国へ部品を送る必要がなくなってしまった。
 日産自動車においても生産分担変更により栃木工場で生産していたパルサーが1995(平成7)年3月九州工場に移管となり、当社のラインが勝山プレス工業(ユニプレス九州の旧名)へ移ることになった。
このような背景の中、全社一丸となって別表『新規取引一覧』に見られるように拡販につとめたが、売上の減った自動車部品の売上高確保はできず、別表『売上高推移』のとおり売上高は減少していった。
深井製作所50有余年の歴史の中、最大のピンチを迎えることになった。

3)RE計画と売上高70億円で利益のでる体質作り
 大月工場は1993(平成5)年の8月操業開始となった。土地の広さは約25万㎡(75,760坪)、工場建屋は116m×160m=18,560㎡(5,630坪)のスタートとなった。山の中腹にできた工場のため稼働当初は朝会社へ行くとカブト虫が沢山とれ、秋になればキノコも採れる自然環境豊かな工場であった。
しかしながら、大月工場への建設資金は銀行からの借入金であった。膨大な建設資金は借入金利息となり会社の大きな負担となった。
 すでに記したように、収入面ではバブル崩壊にともなう自動車メーカーの販売台数減、そして富士重工業・SIAの部品現地調達化による売上高減などが重なり、会社収支の両面で大変厳しい状況を迎えた。
 こうした会社状況を打開すべく取り組んだ経営計画が第1次合理化計画RE(RE-ENGINEERING)計画である。この計画は別表「RE計画の概要」のとおり、「RE計画PARTⅠ~Ⅴ」までから成り、5.5カ年の中長期経営計画となって展開された。基本的狙いと目標は「売上高70億円で利益のでる会社作り」で、「損失を阻止する」活動でもあり、賃金カットや雇用調整など大きな犠牲を払った取組みであった。
 このRE計画への取組みの成功がその後の中期経営計画に生かされ、また会社全員の力となったことは間違いのない事実である。
re01.jpg

4)大月工場への統合と本社移転
 RE計画の施策の一つとして工場の統廃合があり三つの大きな目的があった。一つ目は工場を空け売却し借入金を減らすこと、二つ目は工場と工場間を部品が移動していて余計な運賃を減らすことであった。三つ目として管理者が組織のうえで各工場を兼務し移動ロスが大きく時間のムダが発生していたことである。
 このような状況を改善すべく第1段として太田工場と新田工場を、大月工場への移管で空いた御厨本社工場へ1994年(平成6年)から翌年にかけ統合した。御厨本社工場の組立職場東側へ太田工場から移されたトラクターのロータリーカバーなどのクボタ部品が、西側に新田工場からきた米国オギワラ向け部品(OAC)などが職場レイアウトされた。
 この頃の御厨本社工場のプレス職場にはTRF1600t、600t、タンデムA、B、Cの各ライン、そしてB6ブランキング、PRG300tがまだ稼働し、加工部品を主に大月工場へ送っていた。
世相としては55年体制が崩れ1994年には羽田内閣(新生党)、村山内閣(日本社会党)がスタートしていた。
 借入金圧縮のため御厨本社工場の買い手先を探していた折、新田工場が御厨本社工場へ統合して数カ月後のこと、道路真向かいにあったアキレスから御厨本社工場を譲り受けたいという話しから始まった。話しはトントン拍子で進み、1966(平成8)年6月、翌年3月までに明け渡すことで決まった。1993(平成5年)年夏休みの初回大月移管は組立職場の移設であったが、今回の移管は御厨本社工場の閉鎖で、すでに述べた太田、新田工場の組立職場再移設、プレス職場のトランスフアープレス等の大型機械、そして工機工場の各機械の移設であった。日程的に大変厳しく移管プロジェクトが組まれアキレスとの定期的打合せを行いながら無事終了することができた。
 1997(平成9)年1月1日御厨工場から大月工場へ本社を移転した。
 1977(昭和52)年非量産部品の専門工場としてハンドワーク工業が分社し別れてから20年ぶりに昔の仲間が一つの工場のもとで再度働くことになった。
大月工場全景

(4)受注拡大とさらなる飛躍に向け大月工場の建設 【1989(平成元)年月~】 《会社動向》

1)受注品立上げラッシュ
 将来の飛躍のための3工場制は昭和天皇が崩御した1989年にスタートし、順調な工場稼働となった。農業機械部品としての太田工場、そして産業用機械部品をメインにした新田工場、それぞれ稼働まもなく職場スペースがなくなるほどになっていた。
 この頃、主力工場である御厨本社工場では、組立工場の西側一角を占めていたクボタの農業機械部品が太田工場へ移り、組立職場が空く方向にあった。当社としては当然自動車部品の積極的受注活動を展開し、富士重工業から新型車としてアルシオーネ、インプレッサを、山川工業からはこの時代を一世風靡した日産自動車のインフィニティ(Q45)を受注した。同時にこの時代ヴィヴィオ、セドリック、アトラス、マーチなど大型フルモデルチェンジの受注、また移管としての受注も数多くあり立上げラッシュとなった。
 なお1990(平成2)年頃の量産立上げまでの開発期間は普通乗用車で23~24カ月、軽自動車で20カ月ぐらいであった。製品図面はお客様よりまだ支給して頂いており、CAD/CAMの研修がお客様のところで開催されようとしていた。
アルシオーネ


2)大月工場の建設と稼働
 消費税3%が導入された1989(平成元)年から、軽自動車の規格改正(排気量660cc以下)が行われた1990(平成2)年にかけ御厨本社工場では、農業機械部品の太田工場移管にともない空き職場へ次々と新規受注やフルモデルチェンジによるラインが設置された。組立職場スペースは徐々になくなり、組立北側にあった完成品置き場も次々に組立職場へ変わっていった。
 組立職場スペースはそれだけでは足りず、クレート生産のため下屋を増築したりSIAへの出荷対応で御厨本社工場南へプレハブ倉庫を設置したりした。
 またこの頃、朝倉(福居町)倉庫や太田工場が植木野倉庫も借りていた。一方、組立職場が増えれば従業員も増加し、増える従業員の駐車場対策として御厨本社工場敷地南へ駐車場を拡張工事、そして大月への土地取得意思決定後であるが、1991(平成3)年7月には2回目となる駐車場南側のサービス金型の処分も行った。休憩所も足りず、昼休みには備品類の置いてあった食堂2階も開放するに至った。
 このような背景の中、御厨本社工場の2階化の検討、そして場所の選定では他の工業団地の紹介もあったが、希望する敷地面積に足りず1991(平成3)年4月に最終的意志決定として足利市大月町の鉱山跡地を足利市の仲介で取得することになった。
 大月工場建設から稼働までの責任者は君島所長が行った。君島専務取締役所長は、本田技研工業出身で荻原鉄工所より招聘し、1991(平成3)年大月工場用地取得と同時に就任した。君島所長の指導は世間で話題になるほどで毎朝7時からの職制会議と5Sによる即時徹底改善であった。
また、君島所長の大月工場建設にあたってのコンセプトは無人化であり、タンデムプレスのロボット化、組立ラインの直線コンベア化が1993年夏休みに完成し、同年10月大月工場落成式を迎えることとなった。
大月工場(建設中)
プレス500トンロボットライン

3)採用難にともなう苦心
 1990(平成2)年前半、仕事は確保したが作業者を手当するのが好景気で大変な時代だった。1992(平成4)年3月、当時定例会となっていた早朝職制会議で総務課長から有効求人倍率の話しがあり、①栃木県1.9倍、②足利2.03倍、③技能職6.79倍という状況であった。
また若者には当時流行語となっていた3K(きつい、汚い、危険)を嫌い製造の仕事は敬遠されがちであった。
 当然ながら中途採用・新卒者採用は難しく社内外注に依存する体質になっていった。協和パーツ(ジャブラスの旧名)、ヤマトなど南米日系人の人たちに自然と頼る結果となり、職場には日本語とポルトガル語で書かれた看板等が掲示されていた。
 こうした中、定期採用で正規従業員を確保しようと懸命な努力もした。まずは社内報『QUEST』(クエスト)の発行、そして「入りたい会社づくり委員会」、1991年には長年親しんだグレーの作業服からグリーンを基調とした新ユニフォームへと変わった。
旧ユニフォーム
新ユニフォーム

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11