70年のあゆみ-概要

(6)山川工業との提携と久保田鉄工からの受注【昭和44年~46年】

 日産自動車は、プリンス自動車工業㈱と合併により500社以上に増加した部品メーカーの再編成を実施した。1969年(昭和44年)8月には宝会組織の改編も行った。そしてこの改編を機に、同年深井製作所は、日産と取引のある山川工業株式会社(※)と業務提携を結びその傘下に入ることとなった。
 久保田鉄工㈱は、昭和45年当時堺市に工場を持ち、月売上高150億円で、農業機械部門40%、パイプ部門27%、一般機械部門16%他、という状況であった。同社では、バインダー専門工場として昭和45年に宇都宮工場を完成させた。同社の関東進出を機に、深井製作所は活発な営業活動を行い取引きすることができるようになった。44年にバインダーと田植機の部品を受注し、48年には資本参加を得ることができた。49年からコンバイン部品を、58年からはグレンタンクを受注した。御厨新工場は昭和44年、増設工事が完成した。昭和44年に、日立化成工業㈱、東京プレス工業㈱との取引が開始した。またこの年には、2000万円から4000万円への倍額増資が実施された。
 昭和45年、家族寮、独身寮が新築され福利厚生面が前進した。昭和45年3月11日、関連会社「フカイホーム株式会社」設立。

※山川工業株式会社 :1945年(昭和20年)3月設立。のちに1998年(平成10年)大和工業㈱と合併し現在のユニプレス㈱となる。

(5)御厨工業団地進出で部品工業界に雄飛 【昭和40年~43年】

 昭和38年7月以来、首都圏の都市開発事業を推進することにより、足利市、栃木県の振興発展を図るために、市・県による御厨工業団地をはじめとする7工業団地の開発が始まった。この御厨工業団地進出第1号が深井製作所であった。社歌の中で云う「工業団地の先駆者」のゆえんはここにある。これは会社全体の移転・拡充であり、創業以来の画期的一大計画であった。この計画を可能ならしめた直接的背景として、プリンス自動車工業㈱(※)との取引がある。昭和40年11月に完工。
 時代は、資本の自由化が欧米から求められていたときであった。国内ではこれに対抗すべく通産省の自動車業界再編計画により、プリンス自動車工業㈱は、1966年(昭41)8月、日産自動車と合併した。このときの深井製作所にとって売上高の83%を占める得意先の合併、消滅は衝撃的であった。深井製作所は日産自動車の協力工場となった。後に、昭和43年日産自動車宝会への加入が実現し、日産の傘下に入った。この年12月に深井製作所労働組合が発足した。

※ プリンス自動車工業㈱  1952年(昭27)11月創業、スカイライン、グロリア等を製造。

(4)スクーター部品から四輪自動車部品へ 【昭和33年~39年】

 昭和30年(1955年)にトヨタ自動車工業㈱の「トヨペット・クラウン」、日産の「ダットサン110」、昭和32年(1957年)には富士精密工業の「プリンス・スカイライン」などが相次いで登場した。そういう中で、昭和33年(1958年)3月3日に、富士重工業㈱からスバル360が発売された。
 深井製作所では、このスバル360の部品も受注・製作した。300トン水圧プレスで加工したセンターピラー・リヤスカートなどが主なものであった。
 一方、ラビットスクーターの全盛期は34~35年で、月産合計が5,000台を越えた。しかし、スクーターの需要は35年から下降し始めた。軽三輪ブームの到来、スバル360を始めとする軽自動車の台頭、ならびにホンダスーパーカブ(50CC)の低価格での登場などである。昭和43年6月には、22年間に及んだスクーターの生産を打ち切った。
 スバル360の好調の波に乗った深井製作所は、四輪自動車部門への進出を意図し、プレス集成工場を増設し、300トンおよび200トンの新鋭機械プレス、ならびにシャーリングほかの板金加工機械を導入して、生産体制の強化を図った。昭和35年には富士精密工業㈱(※)(昭和36年から「プリンス自動車工業株式会社」となる)と取引が開始された。
 プリンス自動車工業㈱との取引は、昭和37年に乗用車専門工場として村山工場が完成するまで、納入はすべて三鷹工場であった。当時はパレットもフォークリフトも無く、トラックの床に製品を手積みし、その製品の上にまた製品を運転席の屋根よりも高く積み上げ、輸送・納入していた。

※富士精密工業㈱は、富士産業株式会社が1950年(昭和25年)7月に企業解体した後できた会社の一つ。

(3)スクーターの金型・部品製造で飛躍 【昭和26年~32年】

 より高度な輸送機関の需要を見越した富士産業㈱は、終戦直後からスクーター研究・試作を始めていた。そして昭和22年から本格的生産に移り、「ラビット」の愛称で売り出し、爆発的な人気を博した。
 昭和26年になり、富士工業㈱(富士産業㈱の後身)からラビットスクーターのマフラー、プロテクター等の仕事を受けた。金型製作に始まり、プレス加工から溶接・組立に至る一貫作業で相当な仕事量であった。これらの仕事をこなすのに、シャーリング・段付ローラー・バフ研磨機などのほか、70トンおよび50トンのパワープレスが購入・設置され、人員も増員された。これらの仕事を通じて、金型製作および板金加工に関する技術力が急速にアップし、また、加工技術についての視野が広まった。品質・納期面でも力をつけ、富士工業㈱における深井の評価も、急速に上昇していった。
 昭和28年には月産2000台にもなり、工場は狭くなり機械は不足してきた。昭和27年以降にはスクーターの好調に支えられ経営内容は好転した。27年には、宇都宮工場が閉鎖された。
 昭和29年には資本金を増資し、敷地の拡大と工場の増築、ならびに機械設備の増強が行われた。スクーターの生産量は年を追って上昇し、33年には月産4,000台を越えるに至った。売上高、従業員は増え続けた。

(2)戦後の混迷の中での再出発 【昭和20年~25年】

 深井製作所は、中島飛行機㈱の解散に伴い、昭和20年8月28日内外に解散宣言して門を閉ざした。連合国軍総司令部(GHQ)は20年9月、生活必需品の生産を助成することを政府に指令し、今までの兵器生産工場で、生活必需物資を生産することを認可した。
 これにより各企業は、手持ちの資材で、民需物資の生産が行えるようになった。早速、民需物資生産認可申請を提出し、認可された。民需物資の生産が開始された。家庭用品を主体とし、なべ・フライパン・弁当箱、パインミシン部品の生産に取りかかった。足利工場では金型製作から始まった。GHQの各企業への監視は厳しく、生産状況は月々報告を義務づけられた。これは昭和22年まで続いた。
 昭和23年から24年にかけて、クレー(射撃の標的)・トラップ機(射出機)、発電ランプの反射鏡と菊座、フォーク肩カバー(自転車部品)、靴方等々を製作。また、終戦直後から、天秤・球支え・針板・糸案内・糸調子皿・送りレバー・キャビネット錠・半蝶番等々のパインミシン部品を、昭和24年からは、進駐軍へ納入する絨毯用の吸塵機も製作し、比較的高収益をあげていた。24年の後半になって、富士産業㈱(中島飛行機㈱の後身)から自転車のフレームの仕事を受注した。戦後途絶えていた中島飛行機㈱の後身会社との取引き再開だったので全員張り切って取り組んだ。

(1)戦時体制下の出発 【昭和13年~20年】

 株式会社深井製作所は、昭和13年10月1日、足利の地に創立された。日本は、まさに日中戦争の最中であった。中島飛行機㈱太田製作所の協力工場として金型・部品の発注を受けた。太田・足利周辺には、プレス工場、プレス金型を製作する企業は一社もなかった時代であった。
 しかし、配給統制の時下にあって、製品を作るにも副資材の入手に困難であった。太平洋戦争の戦局が日本にとって悪化すると、航空機が激減した。昭和19年、中島飛行機㈱が軍需会社法に基づき軍需会社の第1次指定を受けると、それにともない深井製作所も航空機部品製造工場としての軍需工場の指定を受けた。陸海軍からの生産要請の増大に応えるため、昭和19年1月、中島飛行機㈱は宇都宮にも製作所を増設。それにともない深井製作所も同年3月、宇都宮に工場を増設した。創立当時、従業員は11人であったが、この頃になると100人に達した。しかし、昭和20年に入ると事態は急変。戦局は悪化した。ついに8月15日終戦を迎えた。軍需生産は終わりを告げた。創業以来6年10ヵ月営々築きあげてきた城が崩れた。

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