70年のあゆみ-概要

(13)大月工場の建設 【1992(平成4)年~1993(平成5)年】

 1990(平成2)年頃は受注品の立上げが一気に増加した。
 御厨本社工場では、新規受注・フルモデルチェンジによるラインが設置され、組立職場域は徐々になくなっていった。

 工場スペースを求めて様々な検討を重ねた。
 このような背景の中で、足利市大月町の鉱山跡地を工場敷地として取得することになった(1992年1月)。この年は、御厨工場建設から27年目に当たる年である。ちなみに創立地山辺町から御厨工場へ本社移転したのも創立年から27年経過したときであった。
 そして1993年10月大月工場落成式を迎えることとなった。
受注の増加、新工場の建設に伴い、生産要員を増加することになったが時代は好景気で大変な採用難であった。
 一方、スタッフ人員も不足し、富士重工業(株)を始めとし顧客先より出向者を迎え入れた。その後も継続し現在に至るまで深井製作所の中枢として活躍頂いている。
バブル崩壊は1992(平成3)年2月、富士重工業(株)のレガシィ、レオーネの減産をもたらした。日産自動車(株)もこの年販売は低調となった。バブル崩壊による経済情勢は厳しさを増していき売上高は減少していった。
 ここで深井製作所50有余年の歴史の中、最大のピンチを迎えることになった。

(12)売上高100億円の達成 【1990(平成2)年~1991(平成3)年】

 御厨本社工場、太田工場、新田工場の3工場体制という成長戦略により産業機械部品の日立建機㈱、小松メック㈱、富士重工業大宮工場、三洋電機と得意先が増えることになった。
 一方、主力の自動車部品は、1989(平成元)年に発売された富士重工業(株)のレガシィが好調となり、またスバル梱包輸送㈱より梱包部品(クレート)を加え、売上高を大きく伸ばすことができた。
 山川工業㈱(現ユニプレス㈱)においても1989(平成元)年~1990(平成2)年にかけ、種々の新規部品が受注となった。
 また当時の高景気にも支えられ、売上高は一気に伸び1990(平成2)年に102億円、1991(平成3)年に106億円と2年連続で100億円を越えた。

 この頃の出来事として、将来を見通し採用人員を大きく伸ばすための入りたい会社づくり委員会(1990年5月)、採用本部(1991年2月)の発足がある。

(11)創業50年の式典 【1988(昭和63)年~1989(平成元)年】

 1938(昭和13)年当時足利郡山辺町で操業を開始し、その後1965(昭和40)年足利市で開発した御厨工業団地に御厨工場(足利市福富新町)を建設し本社工場を移転した。
 御厨工場に移転してから23年を経過した1988(昭和63)年創業50年を迎えることができた。深井製作所創業50周年記念式典が盛大に催され、全従業員293名が50年の発展を祝った。
この頃の深井製作所の経営状況をみると数年前から売上高は減少を続けていた。
 当社売上高は、第1次、第2次の2度のオイルショックによる業績悪化を農業機械部品の好調に支えられていた。
 しかしながら、自動車産業では日米乗用車対米輸出規制による輸出枠が決定し輸出の伸びは頭打ちとなり、一方農業機械業界においても減反政策により農業機械需要の回復は望めそうにない状況となった。
 このような経済情勢を背景にして、建設機械や大型空調機等の産業機械部品へ進出するに至り、これまでの御厨本社工場のほかに太田工場(群馬県太田市)、新田工場(群馬県新田町)を取得し3工場制を敷くこととなった。

(10)谷から峰へ、そして新たなる飛躍へ 【昭和60年~63年】

 昭和55年に始まった景気後退(不況)は、57年を底とする長期不況となり、59年に至ってようやくその回復がみられ始め、60年にはなんとか期待が寄せられるような状況になった。
 昭和60年、深井製作所は品質、リーダーシップ、目的意識、気迫、根性等の面に多分の不満を抱えていたのが実状であった。業績は谷底にあった。
 昭和60年1月、品質向上・生産性向上を実現していくために全社活動として「5S活動」が大々的に展開された。富士重工業のR計画に基づいて3F活動がスタートした。R計画は当初の活動期間が60年9月に満了したので、実績の総括が行われたが、3F活動は再スタートした(49期、61年10月~62年9月)。
人事管理制度については、昭和57年に制定されて3年余り経過したが、その間にいろいろな問題が発生した。そのひとつには、”飛び級”があり昇格時に昇給幅が大きくなりすぎ、運用が困難になった、というような点があった。
 そこで、60年11月、外部の専門家の協力を得、61年4月「職能資格等級制度」に改めた。この制度は「職能要件書」を中核に、職種別・等級別に、必要な能力のレベルと内容を示したもので、9月に完成した。その後の人事管理の礎となった。この「職能資格制度」関連のものを含めて、61年には、規程類の全般的な見直しと新規制定が精力的に行われた。これらの規程類は「規程集」としてまとめられ、全従業員に配布され、今日まで活用され続けている。
 昭和62年、急激な円高があったが、幸いに売上高は前年並みで、労働生産性の順調な向上に伴い、収益面はかえって大幅増になり、創業以来最高の収益を挙げることができた(第49期純利益2億7,000万円)。このような業績の好転は、積年の企業体質強化活動と、地道な目標達成活動などによりもたらされたものである。
 昭和63年3月、福利厚生施設として「三喜荘」を建設(名称は社是の「三高三喜」に由来する)。
昭和63年10月1日、深井製作所は50周年を迎えることができた。そして、昭和63年11月、太田工場が稼働。翌平成元年4月、新田工場が稼働した。

(9)合理化・自動化の推進と体質改善への苦闘【昭和56年~59年】

 アメリカ経済は2度にわたる石油危機による石油価格の高騰で不況へ落ち込んだ。燃費志向のたかまりから、小型車へ集中した。小型車市場への対応が整っていなかったアメリカメーカーは苦境に立たされ、好調を続ける日本車への風当たりが強まった。対米輸出自主規制の始まりであった。日本経済も石油危機による深刻な不況へひきずり込まれ、景気は冷えた。
 昭和56年以降厳しい経済環境の中で、社内の合理化を一層強化するために、「新生産方式」を軸に新生産方式プロジェクトチームによる活動を開始した。この新生産方式プロジェクトチームは、圧造段取時間短縮チーム、組立工場改善チーム、間接部門合理化プロジェクトチーム、材料合理化プロジェクトチームの4つのチームに分かれて改善活動を進めた。
 さらにこれらの活動を補完するものとして、小集団活動や定位置定量作戦が展開された。また、石油危機を契機に省エネルギー活動も組織的に開始した(年間10%節減を3年間続ける)。
 昭和56年12月11日、先代社長深井義信が逝去。現社長の深井孟が代表取締役社長に就任する。
 技術革新や経済活動の高度化は、人事管理制度にも影響を及ぼし、年功序列型人事管理から能力主義的人事管理へ転換するようになった。深井製作所は、55年から能力主義を内容とする新人事管理制度確立への動きが始まり、57年になって、「作業等級規定」、「賃金規定」、「資格規定」など関連する規定が制定された。
 昭和57年10月、富士重工業の「R計画」がスタートした。これは協力工場21社を対象にした企業体力強化運動であった。この計画を深井製作所では、「3F活動」の名称のもとに展開していった(57年10月~60年9月)。3Fは、”富士重工業とともに深井の将来を切り開いて行こう”というものであった。産業経済界はまだ不況の中にあった。
 昭和59年4月から、富士重工業は「R計画」の主柱の一つとして品質改善活動、「Q-UP作戦」を展開してきた。深井製作所では、この「Q-UP作戦」を「3F活動」のなかに位置づけ、第46下期(59年4月~9月)の活動計画で取り組んだ。このとき初めて部として「品質保証部」を新設し、品質保証体制を強化した。さらに「技術管理課」を新設し、開発体制を補強した。
 昭和57年4月、スポット溶接ロボット3台(川崎重工製、ユニメート)を組立工場に導入した。これが本格ロボット導入のはしりであった。同年、「金型売上高増大計画」(5カ年計画)により、NC立中ぐり盤及び倣いフライス盤各1台を導入した。自動加工による効率化と、加工能力の増大を狙った措置であった。プレスでは、59年1月に1600トン トランスファープレスが導入された。1600トン トランスファープレスでは、レオーネの新型車62F(59年7月発売)のディスクホイールを加工した。
 深井製作所はこれらにより生産の自動化の道を進めていった。

(8)徐々に増す厳しさ 【昭和51年~55年】

 昭和51年の念頭に当たり社長は、経営のテーマに「未見の我」の具現ということを掲げた。自分の中には自分の知らない自分があり、人間には無限の可能性があるのだから、各自努力すれば自分はこんなことまでできるのだという結果を示してほしいと要望した。
 昭和52年、40人の大量採用で従業員数が初めて400人を越した(419人)。昭和52年9月決算(39期)で、売上高は初めて50億円台に達した(55億4,700万円)。昭和48年のオイルショック以降、その影響をひきずったまま昭和53年9月決算(40期)は、赤字に終わった。昭和54年には、約3億円の合理化目標の下、4つのプロジェクトチームによる経費削減、外注加工費・購入品低減、生産工数低減、材料費低減など合理化推進がおこなわれた。
 昭和55年に入って目標管理制度を導入した。そのなかで、管理者スキルのレベルアップと意識の変革をはかる教育を実施した。合理化の努力と諸条件の好転と相まって、昭和55年9月期(第42期)決算で、創業以来最高の利益(89,890千円)を遂げた。
 昭和55年に600トントランスファープレスの導入が工場増設と合わせて実施された。
 昭和52年12月、関連会社「ハンドワーク工業株式会社」設立、昭和55年4月1日、関連会社「サン運輸株式会社」設立。

(7)社内体制の強化・充実 【昭和47年~50年】

 経営実績としては、昭和47年9月期(34期)は、日産車・富士重工車ともに台数が伸び、前期の不調が克服されて、1.7%の純利益率(売上高比)を挙げることができた。
 昭和48年1月29日に、社内報「おもかげ」の第1号が発刊された。「おもかげ」は、役員の経営方針、社内の主な行事・できごと等が掲載され広報の役割を果たした。当初は隔月に刊行され、昭和56年からは年1回となり、昭和60年に休刊となった。
 昭和48年には、資本金4,000万円が6,000万円に増資された。第35期(47年10月~48年9月)の売上高は約25億円であったが、昭和49年に年商100億円を目指す100作戦が展開された。その夢は、平成2年(52期)に至り達成することができた。
 昭和48年に大きな石油ショックに見舞われた。昭和48年になって、トイレットペーパーパニックに象徴されるような”モノ不足”を現出し、インフレムードに火をつけた。物価は高騰し、景気は冷え込んでいった。自動車メーカー各社は、軒並み減収減益に追い込まれた。
 しかし、49年から50年にかけて、久保田鉄工の仕事が急増し、車関係の落ち込み分を楽に埋めてくれた。これが石油ショックに伴う激変の直撃を和らげてくれたわけで、深井製作所は、多角経営にこの時の空前の危急を救われたのであった。深井義信前社長はかねてから、安定的発展のためには、富士重工、山川工業、久保田鉄工による「経営の3本柱」の確立が必要であると考え、努力を重ねていたが、ここにそれが達成をみたのであった。そしてこの「3本柱」は、以後の昭和50年代の深井製作所の、強固な経営基盤となったのである。

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