70年のあゆみ-概要

(4)救世主ラビットスクーター 【1951年、昭和26年】 《拡張・充実7工場の歴史》

 1951(昭和26)年冨士工業(株)(富士産業(株)より分社独立)よりラビットスクーターの仕事を受注し、金型製作からプレス加工・溶接・組立に至るまでの一貫生産を確立した。この当時従業員は22人であった。
 1953(昭和28)年冨士工業(株)・富士自動車工業(株)・大宮冨士工業(株)東京富士産業(株)・宇都宮車両(株)の5社が合併し富士重工業(株)が誕生した。その後ラビットスクーターの生産量はどんどんと伸び月産5,〇〇〇台を記録した。工場敷地も1,639㎡、工場面積928㎡、従業員32名となり機械も13台となった。その中でも750トン水圧プレスの導入は深井製作所にとって画期的であった。その後も200・300トンと水圧プレスを増設し先代深井嘉信社長の悲願であった一流のプレス加工屋としての第一歩を踏み込み1959年の売上高が前年の3倍の1億2千万円と初の1億の壁を超えた。従業員も71名となった。
 1947(昭和22)年から続いたラビットスクーターはその後の三輪トラックやスバル360の出現で陰りを見せ1968(昭和43)年に生産を打ち切られた。
山辺第二工場内

(3)終戦 【1945年、昭和20年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 創業後わずか6年で急激に成長し、すべてが順調にいくかに見えたが、1945(昭和20)年事態は急変した。
 終戦となり当時の深井製作所の親会社である中島飛行機(株)は、終戦とともにその生産を停止しその後社名を富士産業(株)と改め再出発した。
 深井製作所も同じく生産停止後、民需物資生産認可を受け再出発したが、戦後つくるものは家庭用品、なべ・フライパン・弁当箱等であり、それでも戦前から培った金型製作の技術を利用し短時日で売り物が出来るようになった。
 さらに、世の中は冷え込み食糧難が続き企業は利益をだせる様な状態ではなかった。深井製作所山辺工場も最少時従業員は7名まで落ち込んだ。

(2)宇都宮工場 【1944年、昭和19年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 生産量も増え、1944(昭和19)年中島飛行機(株)宇都宮工場とともに深井製作所第2の工場、宇都宮工場を建設しさらに受注増となった。敷地面積562㎡工場面積377㎡従業員15名、機械9台で当初飛行機の金型、治具、部品等を生産する。
 その後、終戦を迎えた後宇都宮工場は1954(昭和19)年に閉鎖した。

(1)たびだち 山辺工場 【1938年、昭和13年~】 《拡張・充実7工場の歴史》

 深井製作所は、中島飛行機(株)の協力工場として1938(昭和13)年足利市山辺に会社を創立し70年のたびだちとなった。
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山辺工場敷地配置図

 敷地面積879㎡工場面積469㎡従業員11名で当初飛行機の金型、治具、部品等を生産する。
当時の設備としてはC型プレスと呼ばれる小型プレス3台・旋盤1台・セーパー2台・フライス盤1台・ボール盤1台であった。
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C型プレス

 その後日本は、太平洋戦争に突入し1941(昭和16)年中島飛行機(株)も軍需会社の認定を受け、深井製作所も航空機部品製造工場の指 定「皇国第4666工場」工場となり、機械設備も増えプレス6台となり他の機械も合計18台から26台となり従業員も3年で25人から103名と一挙に増えた。

(16)第3次経営計画(S―5計画)と企業体質強化 【2004(平成16)年~2008(平成20)年 】

 これまでより更なる企業体質強化を図り中期経営計画「S―5計画」が2004(平成16)年4月スタートした。
 「S―5計画」は、高効率経営と業界トップレベルを目指したものとする計画であった。
また将来の発展を見据えた取り組みが必要となった。
 人的な面として、執行役員制度の導入、社内教育制度の大改訂を実施し、さらに2004年10月より海外取引の実情から社内英会話講座の開講、現業部門のレベル向上策として国家技能検定への取り組みも始めた。
 設備面では、車体軽量化にともなうハイテン材の加工設備として、トランスファープレス2700tを導入した。
 さらに駒場工場を取得し設備治具職場を移管し稼働を開始した。
 当社業績はA21計画の終わり頃より安定し、売上高も130億円前後で推移するようになり、そして「S―5計画」売上高目標の150億円を1年早い2008年3月に168億円を達成することができた。

 これまでの主な出来事を列挙する。
・TS16949認証取得(2004年4月)
・プラズマ溶接によるテーラードブランク量産開始(2004年)
・ISO14001認証取得(2005年2月)
・定年退職者再雇用制度を改訂(2006年)
・3D非接触測定機FARO導入(2006年)
・資本金を6000万円から7000万円に増資(2007年3月)
・きむら5S実践舎による5S指導スタート(2007年10月)
・深井とみ元会長逝去(2008年4月2日)

過去かつてないほどの激動ともいえる日本経済情勢の変化、技術革新そして世界経済の変動、このような時代の20年をいかに耐え、いかに乗り切ってきたか簡単に振り返って見てきましたが、深井製作所の最近の20年の各部門の詳細な動きや歴史につきましては「70年のあゆみ」の部門別詳細欄をご覧下さい。

(15)第2次経営計画(A21計画)と収益力向上 【1999(平成11)年~2003(平成15)年】

 1990年代初めにバブルが崩壊し日本経済は落ち込んだが、10年経過した2000(平成12)年になっても景気は回復せず、公示時価は連続下落、完全失業率も5%後半で推移していた。 
 そうした環境の中、当社の業績はRE計画後半には徐々に改善し第2次合理化計画A21計画へと引き継がれた(1999年4月)。  
 売上高は1992(平成4)年9月以来減少が続いていたが、RE計画の中間となる1996(平成8)年9月にストップし、その後徐々に回復、A21計画の最終年度となる2004年3月には取り組みが実を結び、136億円の売上高を確保するまでになり収益力も向上した。
 『技術立社』は、社長が1998(平成10)年4月に経営活動スローガンとして表明した。技術立社はA21計画の柱の一つであった。
 自動車メーカーは開発車の増加やコスト削減による工数不足から部品メーカーに対しゲストエンジニアを要請するようになった。部品受注、拡販活動のためゲストエンジニアは不可欠な時代となった。
 また、提案企業として新技術・新工法・新製品のプレゼンテーションを積極的におこなうようになった。
 FPS活動もA21計画の柱の一つである。生産性向上、品質のレベルアップ、在庫削減、物流、5S、標準化など会社の成長に役立った。『技術立社』もFPS活動も売上高増大、収益力向上に大きく寄与することになった。

 この頃の主な出来事を列挙する。
・FPS活動基本方針展開(1999年3月)
・テーラードプランク材の研究に栃木県地域技術改善補助金が交付される(1999年)
・顧客先に対してユニプレス・深井製作所合同プレゼンテーションを行う(1999年)
・栃木労働局より快適職場推進事業所に認定される(2000年)
・プレス全ラインかんばん生産完了(2000年)
・教育委員会発足(2000年)
・組立職場能率管理スタート(2001年)
・QS9000認証取得(2003年1月)
・栃木県フロンティア企業に認証される(2003年)

(14)第1次経営計画(RE計画)による状況打開 【1994年(平成6)年~1998(平成10)年】

 深井製作所は、大月工場の膨大な建設資金の借入金利息と、自動車メーカーの販売台数減など、会社収支の両面で大変厳しい状況を迎えた。
 こうした経営状況を打開すべく取り組んだ経営計画が第1次合理化計画RE計画である(1994年8月)。
 このRE計画の成功がその後の中期経営計画に生かされた。
 RE計画の施策の一つとして御厨工場・太田工場・新田工場の統廃合と売却があった。
 1997(平成9)年1月1日御厨工場から大月工場へ本社を移転した。

 この頃の主な出来事を列挙する。
・決算期変更(1996年)
・品質方針を決定『品質第一で顧客の満足と社会の信頼を得る』(1996年)
・大月工場西館事務所完成(1997年)
・取引先協力会『深和会』再スタート(1997年)
・ISO9001認証取得(1998年4月)
・社長『技術立社』を表明(1998年4月)

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