70年のあゆみ-概要

(4)売上目標150億を1年前倒し達成 【2007年(平成19)年~】 《営業活動》

 2008(平成20)年度に目標売上高150億を掲げ、全社一丸となり、目標に向かって邁進して来ました。その結果、富士重工(株)の好調な生産数により、2007(平成19)年度に売上高168億となった。これは、目標の1年前倒しでの達成であった。バブル崩壊後4年目の1995(平成7)年には、71億まで売上高が減少したが、1998(平成10)年には95億、2003(平成15)年には136億となり、この8年間で約2倍まで売上高を伸ばすことができた。
 これは、日頃の活動の成果はもちろんですが、次の要因が大きく寄与しました。
 ・開発技術部門の設置による新技術提案志向の技術変革
 ・諸先輩が築いてこられた技術力・管理力の継承
 ・営業技術によるタイムリ-な営業活動
 ・初のプレゼンテ-ションの開催・継続とお客様ニ-ズが合致

 その後、プレゼンテ-ションは毎年2回実施しております。
 これらの結果、中堅企業としての基盤が確立された。
 これを踏まえ、2012(平成23)年には、現有設備を最大限に有効利用し、新技術を織り込んだ部品開発を進め、売上高200億を達成することを目指しております。
フォレスターエクシーガ

(3)攻めの営業へ変革 【1999年(平成11)年~】 《営業活動》

1)お客様へ“深井初のプレゼンテ-ション”
 1991(平成3)年バブル崩壊後、RE計画による新規顧客の開拓や既存顧客の受注量拡大に向けた活動を続けてきましたが、顧客の求めている要求は、品質、価格、納期の最適な部品を購入することであった。そこで、1999(平成11)年10月にユニプレス(株)との合同で、富士重工(株)において「深井初のプレゼンテ-ション」を開催し、大勢の方々が来場されました。総来場者は316名で、富士重工株式会社の開発部門より157名、製作所部門より79名、地場の取引先を含んだ会社より80名の方々が来場されました。
 展示品は、テ-ラ-ドブランク部品、高張力材部品やモジュ-ル化、精密プレス部品等数多く出展しました。特に自動車の軽量化に関する部品に感心が集中し、大好評でありました。結果は、深井の技術力を十分披露でき、「受身の営業」から「攻めの営業」への変遷の一歩が踏み出せ、初のプレゼンテ-ションは無事成功することが出来ました。
プレゼンテーション1プレゼンテーション2

2)大型プレス機導入による営業活動
 1997(平成9)年12月に京都市の国立京都国際会館で開かれました第3回気候変動枠組条約締約国会議において、気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書によるCO2削減(日本6%)が結ばれて、自動車の軽量化が一段とクロ-ズアップされてきた。
 深井初のプレゼンテ-ションでも軽量化に注目があったこともこの議定書からである。
各自動車メ-カは、次期車に軽量化するための高張力材を採用する動きに拍車がかかった。この高張力材は590Mpa級で一般材の2倍の強さで、当社のメイン部品のフレ-ムサイドリアロアフレ-ムリアが、1600TRFプレスでは生産ができなくなる可能性が予測された。そのために弊社も大型プレス機導入の検討に入った。
 しかし、売上高はバブル崩壊後から5年目の1997(平成9)年から増加傾向になって来ていたが、バブル崩壊後の影響がまだ残っている状況にあった。世の中も少しは良くなってきているものの、地方や中小企業では、良くなってきたとは感じられる状況ではなかったので、高額投資はさけなければならなかった。
 そこに、富士重工(株)より中古プレスがあるとの情報を頂き、導入するかの議論を再三重ね、経営としてどうしても必要との結論に至り、2005(平成17)年12月にISUZU自動車(株)藤沢工場より、2700TRFプレス機の導入・設置をしました。
 現在は、高張力材のフレ-ムサイドリアロアフレ-ムリアの590Mpa級部品やセンタ-ピラ-(980Mpa級)を中心にフル生産をしております。
また、このTRFプレスを導入したことで多くの部品を受注することができた。

3)金型・設備事業部の構築・拡大
 2000(平成12)年ごろより自動車メ-カ各社がプラットホ-ムの共用化を進める方向にむかった。それにより、弊社で受注していた設備の受注量も少なくなることが予測されたため、2003(平成15)年3月にロボットを配置した設備の設計・製作していた関東技研(株)を深井へ統合し、弊社の営業部門との連携による受注量の拡大を図った。これにより、弊社の設備治具事業部となり、組織は5本部制から5本部1事業部制となった。
 その後、設備治具事業部は、本社大月工場内が手狭になったため、2005(平成17)年7月に足利市駒場町に新工場を設け、自動車部品に偏らず今まで培って来た固有技術により、設備・治具の営業活動を積極的に開始した。2006(平成18)年10月に事業部名を設備事業部に変更した。
 また、同年同月に技術本部内のプレス技術課を分割し、金型のみを製作・発注する業務に特化した組織の金型事業部を新設した。これにより、5本部1事業部制から5本部2事業部制となった。
 これは、将来の売上高150億を目指す一つの手段として、より効率的な業務遂行および拡販活動による売上高の増大を目指すための発足であった。
駒場工場

(2)バブル崩壊後の苦難 【1991(平成3)年~1995(平成7)年】 《営業活動》

1)売上高激減で設立以来の大ピンチ
 売上が順調に拡大をし、過去最高の売上高を記録した翌年の1991(平成3)年にバブルが崩壊した。この年は、新工場建設の構想が整い建設の決断をする時期であった。崩壊後、1990(平成2)年の売上高106億をピ-クに緩やかに生産量が減少し、それにともない売上高の減少が始まった。
 1992(平成4)年には93億まで落ち込んだ。そこで、バブル崩壊後2年目の1993(平成5)年にRE計画を策定し、各職場でその目標に向かい取り組みを開始した。しかし、崩壊後4年目の1995(平成7)年には売上高71億円まで落ち込んでしまった。
 会社設立以来の大ピンチを迎え、売上高を拡大するための手段として、新規顧客先の拡大を最優先にした活動に打ってでた。

2)新規お客様の開拓開始
 RE計画での施策として売上高拡大に向け、既存顧客以外の新規顧客の拡販活動をするため、1993(平成5)年に開発課を新設し、拡販活動を開始した。世の中の経済が低迷している中でどうやって拡販するか検討を重ねた結果、まずは、弊社のプレスを有効に使用出来る顧客に絞った拡販をする方向にした。
 まず、同年3月に荻原物産(株)よりプレス・組立の自動車部品を受注して、北米へ向け輸出を開始した。その後、思うように新規顧客が開拓出来なかったが、1994ゅ平成6年ょ1月に(株)エフテックよりSIAで生産するレガシィのリア廻り部品の金型を46型受注した。当時は、各自動車メ-カ-の新規開発が少なく、どこの金型屋も負荷不足であったため、大変有り難い受注であった。同年年2月に日立化成工業(株)から自動車部品を4点受注し、B6のブランキングラインで生産した。また、同年5月に脚立を販売しているアルインコ(株)より、脚立の継ぎ手部品を受注し、栃木県茂木町の工業団地まで片道2.5時間かけて納入した。
 その後、この勢いにのり次々と新規顧客先を拡大した。同年7月にタイガ-カワシマ(株)より米自動計量器のホッパ-を受注し、Cラインプレスにて生産をした。同年10月に荻原物産(株)」よりシュレッダ-ボックスを受注し、新田工場にて生産を開始した。同年11月に建設機械を中心に製作・販売をしている株式会社加藤製作所よりショベルカ-のカバ-やクレ-ン車のカバ-を受注し、当時の新田工場設備のベンダ-やタレパンの設備にて生産をしました。同年12月にダイハツ車体(株)よりゴルフカ-トのフレ-ム組立を受注し、大月工場にて生産を開始した。
 さらに顧客拡大を進め、フクダエンジニアリング(株)より伸縮自在コンベア、日本鋼管ライトスチ-ル(株)のガ-ドレ-ルブラケット部品、東京鋼鉄(株)の駐輪場の架台、(株)三翆社のキュ-ピクル、サン自動車(株)のけん引車を受注した。1997(平成9)年1月に(株)エフテックよりアコ-ドの設備受注をきっかけに部品の生産も引き受け、生産を開始した。その結果、新規お客様を11社拡販でき、売上高は年間で約8億増やすことが出来た。現在では、(株)エフテックとの取引が年々増え、年商で約10億の売上を計上している。
 しかし、売上高の拡大スピ-ドは上がらずであった。そこで、1989(平成元)年に達成した100億に早く戻すために、1998(平成10)年4月に技術部内に開発技術Gを新設した。
 受身の営業活動から弊社の持っている技術力にさらに磨きをかけ、新技術・品質、価格、納期等をお客様に満足して頂けるように、攻めの営業への第一歩を踏み出した。
シュレッダーボックスゴルフカートフレームガードレールブラケット

3)海外向け金型・設備受注による技術員派遣 1998(平成10)年~
 1998(平成10)年2月、第18回冬季長野オリンピックで日本が盛り上がりをみせていたこの年、山川工業(株)と大和工業(株)が合併し、ユニプレス(株)が誕生しました。弊社の売上高がわずかではあるが増加の兆しが見え始めたこの年に、ユニプレス株式会社より海外向けの金型・設備を受注し、アメリカテネシ-州にあるユニプレスアメリカへ初めて技術員の派遣をしました。これは、富士重工(株)のアメリカ(SIA)で生産するレガシィ-のフルモデルチェンジ車で、幣社で受注していたフレ-ムサイドFF・ブラケットエフサス部品の金型・設備の製作と現地据え付け工事および品質を含めた受注をし、技術員を3名派遣した。
 2002(平成14)年には次期レガシィ-(21Z)の金型・設備をユニプレス(株)と菊池プレス工業(株)より受注をし、アメリカへ技術員を2社に各2名派遣をした。その間日本からも今後の海外生産工場計画を見据えた情報収集のために、経営者トップが数回に分けて渡米を繰り返した。
 2004(平成16)年には、北米での生産工場設立に向けた時期・人員・場所・設備・投資等を計画するために、北米進出準備室を開設し、ユニプレスアメリカに駐在員1名派遣した。そこで、海外でのいろいろな課題等を1年間調査・整理をしました。しかし、結果としては、日米の生産環境やお客様のご指導等により、経営判断で北米計画は保留となりました。
 その後も、ユニプレス(株)よりイギリスで生産する金型を受注し、次々と派遣をした。今までは遠い国であった国が、日本の出張同様に行き来するようになり、バブル崩壊後の金型・設備の仕事も年度毎に増え、2002(平成14)年には総売上高は94億となり、バブル時期の売上高に戻ってきた。
派遣技術員SIAにて

(1)創業より50年までのあゆみ 【1938(昭和13)年~1989(平成元)年】 《営業活動》

 先代深井義信社長の念願でありました「売上高100億」が、会社設立52年目の平成元年に売上高102億を達成することができた。ここに至るまで半世紀の道のりでありましたが、先代社長の強いリ-ダシップ、二代目社長のアグレッシブな展開、さらには入社された方々の努力の結果により達成され、これまでの中小企業から中堅企業への一歩が始まった。

1)会社創業時からの軍用飛行機産業
 会社設立1年目は133千円の売上高で、当時の中島飛行機の冶具・部品等の製造で始まりました。創業当初より軍需産業を中心として部品を受注・製造しました。

2)戦後の富士工業(株)からの「スク-タ」及び日立製作所(株)の「家電製品」受注
 1951(昭和26)年には、富士工業(株)よりスク-タ部品を受注し、プレス部品主体の生産工場へ変革した。さらに、富士重工業(株)群馬製作所との取引をさせて頂いたのを足がかりに、同伊勢崎製作所の窓枠部品も受注。合わせて同宇都宮製作所の折りたたみ式コンテナ-を受注した。30年代に入ると産業界が活発するに連れ、家電の日立製作所(株)より電気冷蔵庫の部品を受注しました。スク-タ部品を初めとして、受注部品は多岐・多量にわたりました。

3)富士重工業(株)の四輪車転換に合わせて
 1958(昭和33)年にはスバル360の部品を受注・製作した。センタピラ-・リヤスカ-トなどが主なものであった。
スバル360

4)富士精密工業(株)(プリンス自動車)からの受注
 このスバル360が順調な伸びを示していた頃、当時の富士精密工業(株)(プリンス自動車工業(株)から日産自動車(株))からスカイラインのインストパネルやプリンスホ-マ、マイラ-、クリッパ-のトラック部品を受注しました。
スカイライン

5)本田技研(株)及びダイハツ工業(株)との取引
 昭和40年代には、本田技研(株)狭山工場が完成したのを機に、鈴鹿工場より移管になる軽トラックのボディ-部品を受注しました。その後、ダイハツ工業(株)前橋製作所(ダイハツ車体(株))より軽トラック部品を受注した。

6)プリンス自動車(株)と日産自動車(株)の合併と山川工業(株)との業務提携
 1966(昭和41)年5月、プリンス自動車工業(株)と日産自動車(株)の合併が実現した。1969(昭和44)年に、山川工業(株)(現 ユニプレス株式会社)と業務提携をし、日産自動車と新たな取引を開始することになった。

7)久保田鉄工(株)から農業機械部品の受注
 1969(昭和44)年に久保田鉄工株式会社(現 株式会社クボタ)の協力工場となり、バインダ-・コンバイン・田植機の部品を多量に受注しました。1975(昭和50)年には、筑波工場よりトラクタ-のロ-タリカバ-を受注した。その後農機具の売上が年ごとに伸び、1977(昭和52)年には、55億を達した。このときの売上比率は、久保田鉄工(株)39%、山川工業(株)30%、富士重工(株)28%であった。1983(昭和58)年には念願であった完成部品のグレンタンクを受注しました。初の完成部品とのことで、成功に向けた強行作業であった。
グレンタンク

8)念願の売上高100億の達成
 売上も着実に拡大を続け、1987(昭和62)年(会社設立50年)に83億円を達成、1989(平成元)年(会社設立52年)に102億円となった。その翌年の1990(平成2)年(会社設立53年)には、106億となり過去最高の売上高を記録した。これまでの自動車部品や農業機械部品に加え、産業機械部品の日立建機(株)、小松メック(株)、富士重工(株)大宮工場、三洋電機(株)、スバル梱包輸送(株)との取引が始まり、念願の100億の達成となった。
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(5)先進的労務管理施策の展開 《人事・安全・環境》

1)雇用管理の見直し 2005(平成17)年~2006(平成18)年
 これまでの雇用制度の見直しも行った。2005(平成17)年4月、役職定年制を導入し、管理者・監督者の若年化を図った(2008年4月に廃止した)。
 また、次期取締役候補の育成を図る執行役員制を2006(平成18)年10月にスタートさせた。
 公的年金制が社会問題となる一方で、定年退職者の再雇用が会社に対して制度として要望されるようになってきた。深井製作所は2006年3月定年退職者再雇用規則を改訂し、段階的に65歳まで雇用していく方法を採用した。

2)時代に沿った新社内研修の取り組み 2005(平成17)年~2008(平成20)年
 人材育成のため、教育は以前より熱心に行われていたが、社内研修が初めて体系的に実施されるようになったのは、1983年(昭和58年)1月からである。
 上記したように、1982(昭和57)年新人事管理制度確立の動きのなかで、「作業等級規定」「賃金規定」「資格規定」が制定展開された。「資格規定」に基づく資格試験が実施され、試験に先立って社内教育が行われた。QC、IE、原価、JST、MTPの教育であった。どちらかというと現場社員または管理監督者向けの教育であった。10年後職能資格制度の下、1992年(平成4年)にはさらに間接部門向けの科目や工場部門の職種毎の科目を増やし、さらにQCやIEも等級の低い1等級の人から理解できるように、従来のものをバラシ等級毎に組立て直した。
 社内研修は、職能資格制度とリンクし、研修の受講率は昇格試験の受験資格の条件となった。しかし、同じことを長くやっていると内容が時代に合わなくなってくることは否めない。
 2005(平成17)年頃から教育委員会が設置され、社内研修の見直しが始まり、時代の変化や企業活動に要求される多様化に対応すべく、社員の質的変化やレベルの向上を図るため、「原理・原則」に即して新しい社内研修の体系を作りあげた。
社内研修

 2007(平成19)年4月、最も重要と考えられる、「安全」「原価」「品質」に新しい展開が行われた。部課長が、テキストを作成し講師を務め、それぞれの科目は全職種を対象としている。テキストはそれぞれがわかりやすく、精度の高いものとなった。
 アメリカやイギリスその他海外での取引が多くなり、さらに部門も多岐にわたって出張や滞在の頻度が多くなってきたため、英会話能力(英語能力)が必要となった。
 そこで2004(平成16)年10月から、社内で英会話講座を開始した。講師には英米人の方を迎えており、既定の受講回数の修了時には全員TOEICの試験を受けることになっている。
 受講修了者はすでに英米での仕事に活用している。
管理者研修監督者研修

3)労働時間の短縮 1981(昭和56)年~2008(平成20)年
 我が国の戦後は、1947(昭和22)年の労働基準法(週48時間労働制)による影響で急激に労働時間は短縮された。
 その後、経済復興で経済の稼働率が上昇するにつれて労働時間は長くなったが、1960年代にはいると生産性向上の成果も得られ労働時間は短くなってきた。
 60年代後半のいざなぎ景気が過ぎ1970年代のオイルショック後、労働時間はさらに短くなってきた。
 1981(昭和56)年当時、我が社の年間所定内労働時間は2121時間40分で、年間の労働日は268日、休日数は97日、1日の所定内労働時間は7時間55分という状況であった。
 当時の生産量は現在の約2倍はあったというこの時期に、さらには時短は実質賃上げという考え方もあり、所定内労働時間を短縮するには躊躇があったろうと推察される。
 しかし、この頃から我が社も労働組合の労働諸条件改善要求を契機として労働時間短縮の方向へと向かった。
 1980年代に世界から日本は「働きすぎ」と批判を浴びる中、’88(昭和63)年には法定週労働時間を48時間から40時間へ短縮する改正労働基準法が制定され(当面46時間)、’93(平成5)年に週40時間への実際のシフトが決まった。基準法にしたがい、翌年我が社も週平均労働40時間制に変更した。
 また、1992(平成4)年には、時短委員会(※)で有給休暇取得制度を検討しているなかで、リフレッシュ休暇制度を取り入れた(10月1日制定)。1年間の中で1回3日間連続で有休を取得することができ、土日曜の休暇を合わせて利用すると連続5日間休みがとれるという制度である。またこのとき、それまで当月に恣意的に取得していた有給休暇を、前月のうちに計画的に申請する取得制度に改めた(計画休暇)。有給休暇を取りやすくしたのである。

(※注)時短委員会   1989(平成元)年に総労働時間短縮に向け労使双方で構成され設置された委員会。

その後、所定内労働時間は以下のように減少推移した。

1984(昭和59)年 2090時間、年間労働日は264日、休日数は101日、1日の所定内労働時間7時間55分
1988(昭和63)年 2066時間15分、年間労働日は261日、休日数は104日
1993(平成5)年  2026時間40分、年間労働日は25日、休日数は109日
1994(平成6)年  1日の所定労働時間は8時間とした。
1995(平成7)年   1992時間となり2000時間を割った。
1998(平成10)年 1976時間、年間労働日は247日、休日数は118日
2000(平成12)年 1952時間、年間労働日は244日、休日数は121日

 休日数は主要な得意先である大手企業の富士重工業と同じになった。
 以降、2008(平成20)年の今日に至るまで、年間年間所定内労働時間は1952時間となっている。

 所定内の労働時間の短縮はみてきたように前進を続けてきたが、所定外労働時間を含めた総労働時間も短縮されてきたわけではない。生産量を消化せざるを得ない状況で総労働時間を減らしていくのは困難な問題と言わざるを得ない。
 仕事と家庭生活を両立させるべく登場したのが、2005(平成17)年の次世代育成支援対策推進法である。
 我が社は、推進行動計画のなかで、平均所定外労働時間を2007(平成19)年までに年間240時間以内とする方向を示している。
 また有給休暇取得率を、2007年までに現行41%から60%以上にするとした。
 適正な労務管理をめざし果敢に取り組んでいる現状である。

(4)職場環境改善への取り組み 《人事・安全・環境》

1)大月本社工場への統合 1993(平成5)年~1998(平成10)年
 1993(平成5)年8月、大月新工場が完成し稼働を開始したわけであるが、このときはまだ御厨工場の機能の一部が移転しただけであった。続いて、'94(平成6)年11月に太田工場を、翌年'95(平成7)年11月に新田工場を閉鎖し大月工場に移設統合した。そして、'97(平成3)年3月までに御厨工場の機能のすべてを移設、ここに深井製作所の機能が全面的に大月工場に統合するに至った。
 従業員にとって5万坪敷地の会社の内外の環境はすべてが新しかった。全員の通勤経路が変わり大月工場に集結した。
 そういう中、1995(平成7)年に足利工業大学より桜の苗木100本の寄付を受けた。今では主幹も太く成長し、毎年4月になると満開の桜が工場外周に彩りを添えている。
 徐々に工場外周環境や職場環境に応じた新しいルールを策定、整備していった。
大月工場

2)職場改善から環境管理へ(環境マネジメントシステムの導入) 1999(平成11)年~2008(平成20)年

 1998(平成10)年4月、当社はISO9001を認証取得した。翌年7月、顧客である富士重工主催の環境問題研究会が始まった。ISO14001取得を前提とした第1部会会社の集まりの勉強会であった。主に、各会社の総務関係のメンバーが参加した。当時、すでにISO14001を認証取得していたのは第1部会11社中1社だけであった。コピー用紙と産業廃棄物の削減目標を立て、研究会で勉強し各社で削減活動を行った。
 この研究会は、翌年3月まで続いた。大半の会社はこの後ISO14001の認証取得に向けて活動を開始することになった。
 しかし、当社は、すでに取得していたISO9001をQS9000に切り替える準備があったため、QS9000認証取得後に活動を開始するということになった。
 結局、全員集会にてISO14001認証取得に向けてキックオフをしたのは、2004(平成16)年4月1日であった。
 大月工場は自然環境豊かな工場であるが、環境改善を目的に環境管理を始めたのはこの頃からであった。
 工場敷地内にあった可燃物焼却場の廃止にともない、ゴミの分別を開始した(2000年1月)。このとき可燃物廃棄物のポリ容器を全社統一して設置した。また工場北側に産廃物の分別集積場の「エコターミナル」を新設した。深井製作所の環境方針を策定しこの環境方針に基づき、各部署が環境に関する改善目標をたて改善活動を開始した。
 2005(平成17)年2月22日認証取得した。
 生産工場の源泉というべき金属原材料、電気利用の削減には当初から果敢に取り組んでいる。
ISO14001

3)安全衛生マネジメントシステムの導入 2004(平成16)年~2008(平成20)年
 大月新工場が稼働開始して以来、従業員が安心・安全に生産活動に従事できるよう安全衛生体制や防火防災体制の整備の充実を図ってきた。
 安全衛生や防火防災活動は労使より構成される安全衛生委員会を中心に、常に社内の隅々に目を配りながら適切な対策をとり、またときに監督署や消防署の要請に応えながらおこなってきた。
そんな中、2000(平成12)年11月、栃木労働局より快適職場推進事業所に認定されたことは喜ばしい出来事であった。
 2004(平成16)年12月、監督署より安全衛生マネジメントシステムの導入要請があった。
 1999(平成11)年、労働安全衛生法の一部改正により、『労働安全衛生マネジメントシステムに関する指針』(平成11年4月30日)が告示された。
 バブル経済崩壊後、社会経済情勢の変革の流れの中で安全衛生管理についても変化がみられた。労働災害は減少してきているものの、人員の合理化、アウトソーシング化、分社化により安全衛生管理部門の人材が減少し、安全確保の面で知識や技術が次世代に円滑に伝承されにくくなってきた。そこで安全衛生管理を確保する方法として新しく登場したのが安全衛生マネジメントシステムである。
 そういう背景があっての導入要請であった。
 しかし、当社では他社にみられるような人員の合理化等の事情はなく、人材の減少はなかったが安全衛生マネジメントシステムを導入することにした。それは監督署の要請は導入の一契機ではあったが、年4~6件の労働災害が発生しており、それを何とか導入することにより削減したいという会社としての強い一念があったからである。2006(平成18)年4月、安全衛生マネジメントシステムの導入を開始した。
 日々の安全衛生活動により工場内の働く環境は整備されてきた。しかし工場の構造によるためか、冷暖房や溶接の排煙対策に苦心・苦悩してきた。様々な対策をとってきたが、いまだ今日の大きな取り組む課題となっている。
快適職場認定書

4)5S活動の変遷と変身 1997(平成9)年~2008(平成20)年
 5S活動は安全衛生活動をはじめすべての活動の基本である。
 そのような認識のもと5S活動は御厨工場の時代に一時期おこなっていた。大月工場に移転してからは、1997(平成9)年に富士重工指導によるSPS活動の一環で5S活動をおこなった。これは主に工場内の一部(組立職場のライン)を中心にした活動であった。
 工場内・ライン・設備における標準類の作成(ルールづくり)をおこなった。このときの標準化の考えはこの後のFPS活動にも流れ、安全衛生活動などさまざまな活動に活用され現在にも及んでいる。
次に工場、事務所を含めた全社的な5S活動が始まったのは1999(平成11)年からであった。各職場の5S活動を競争の形をとり、相撲番付になぞらえて楽しく展開し、評価・表彰もおこなった。このときは評価の難しさを痛感した。
 2002(平成14)年、新たな5S活動が開始された。その名も「儲かる5S」であった。柿村専務(当時)を中心に5S推進委員会が組織され活動が始まった。目的は、「異常がわかる」「ムダが見える」「会社が儲かる」ことである。トップダウンのやり方で行ったが活動の中心は各職場の課長であった。活動期間は当初1年間としていたが、2007(平成19)年10月まで続いた。写真を活用し他社へ工場見学を行なったり、表彰制度も取り入れながら5S活動を進めた。活動の成果は工場内の随所に現れ、他社の評判にもなり見学者が増えた。
 その後5S活動のトップが交替し、同年11月から5S推進委員会の構成を変更し、委員会を中心に新たな活動が展開された。毎月課長以上による土曜休日の活動も行うなど、大月工場稼働開始以来の大がかりな5S活動であり、15年間の垢落としがスタートした。
5S指導会

きむら5S実践舎の木村温彦先生・越前行夫先生の指導も同時に開始された。両先生の理論をともなった指導・改善ヒントはわかりやすく誰でもできる改善となっている。「見える化」「コンビニ化」「自分のために」などをめざし、日々邁進している。
 "みんなで実践 変えよう 変わろう!"(5Sキャッチフレーズ)
  このキャッチフレーズは、全従業員から募集し1位になったものである。このキャッチフレーズの下、従業員も会社も変わる日が近いことを念願している。
5S活動で整然とした職場

(3)人事管理制度の変遷 《人事・安全・環境》

1)年功序列型人事管理から能力主義的人事管理への転換
 わが国の企業における人事管理は、長い間年功序列を中心に行われてきた。しかし技術革新その他による経済活動の高度化は、生産工程や労働内容そのものに著しい変化をもたらした。昇進・昇給などの基準を各人の年齢や勤続年数でなく、能力そのものに求める必要が生じてきた。
 すなわち、年功序列型人事管理から能力主義的人事管理への転換が必要になってきた。

2)職能資格制度の導入 1985(昭和60)年~1992(平成4)年
 深井製作所においては、1980(昭和55)年から能力主義を内容とする新人事管理制度確立への具体的な動きが始まり、1982(昭和57)年に至って関連3規定、すなわち「作業等級規定」・「賃金規定」および「資格規定」が制定され社内展開された。
 しかしながら、運用面においてさまざまな問題が発生した。
 そのひとつには、”飛び級”があり昇格時に昇給幅が大きくなりすぎ制度の運用が困難になった、というような点があった。そこで1985(昭和60)年11月、外部の専門家の指導の下に、1986年4月「職能資格等級制度」に改めた。「ヤレばヤッタだけ」の精神の導入である。この制度は「職能要件書」を中核に、職種別・等級別に必要な能力のレベルと内容を示したもので、9月に完成した。いうならば社員の能力のあるべき姿が示され、指導・育成していくという制度である。
 この制度は20年経った今日でも生き続けている。この年4月に賃金制度も改めた。このとき全従業員に対して、人事管理委員会より小冊子『「職能資格制度」について』を発行配付し、新人事管理制度の説明会を実施し理解を求めた。この年10月には職能資格制度に基づく人事考課制度も導入した。翌年4月には賃金と連動するこれまでの退職金制度を改め、ポイント制退職金制度に変更した。誰でもが自分の退職金計算ができ将来予測が可能となった。6月、職能資格制度に基づく最初の昇格試験を実施した。このように次々と精力的に人事制度の改訂をおこなった。
溶接作業

3)職能資格制度の定着 1993(平成5)年~1996(平成8)年
 職能資格制度を導入して数年が経って、職能要件書に記載されている仕事内容が実際の仕事と合わなくなってきた。
 そこで、1993(平成5)年4月、職能要件書を全面改訂した。さらに6月人事考課の公正・公平を考慮し、目標の難易度を織り込んだ人事考課方法に改めた。1994(平成6)年2月、職能資格制度導入後8年経過したところで制度の定着化や今後の改訂方向を調査するため、初めて従業員に対して職能資格制度に関するアンケートを実施した。高齢になるほど年功序列に寄り、若い人ほど職能資格制度を良しとする傾向があることが判明した。
溶接ライン作業

4)職能資格制度の見直し 1997(平成9)年~2002(平成14)年
 1990年にバブルがはじけ経済情勢が厳しさを増してきて、’93年頃から大企業ではリストラが始まった。’95年4月の完全失業率は1953年以降最悪の3.2%(214万人)となった。空前の就職難であった。
 労働白書によると’97年には定職を求めない若者のフリーターが151万人で大卒の2.3%にもなった。
また、2000年の春闘賃上げは最低の1.94%であった。これらは経済情勢の厳しさを物語っている。
深井製作所も様々な面を見直す必要が生じた。人事制度も例外ではなかった。これまでの能力給あるいは"役割"を見直すことであった。
 その一つの改訂が1997(平成9)年10月、管理職の手当を変更し役割給を導入したことであった。さらに、2002(平成14)年4月に年功的色彩の年齢給を廃止し、従来の職能給を新職能給体系(保有能力給・職務給)に変更した。
技能検定合格者

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