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(1)創業より50年までのあゆみ 【1938(昭和13)年~1989(平成元)年】 《営業活動》

 先代深井義信社長の念願でありました「売上高100億」が、会社設立52年目の平成元年に売上高102億を達成することができた。ここに至るまで半世紀の道のりでありましたが、先代社長の強いリ-ダシップ、二代目社長のアグレッシブな展開、さらには入社された方々の努力の結果により達成され、これまでの中小企業から中堅企業への一歩が始まった。

1)会社創業時からの軍用飛行機産業
 会社設立1年目は133千円の売上高で、当時の中島飛行機の冶具・部品等の製造で始まりました。創業当初より軍需産業を中心として部品を受注・製造しました。

2)戦後の富士工業(株)からの「スク-タ」及び日立製作所(株)の「家電製品」受注
 1951(昭和26)年には、富士工業(株)よりスク-タ部品を受注し、プレス部品主体の生産工場へ変革した。さらに、富士重工業(株)群馬製作所との取引をさせて頂いたのを足がかりに、同伊勢崎製作所の窓枠部品も受注。合わせて同宇都宮製作所の折りたたみ式コンテナ-を受注した。30年代に入ると産業界が活発するに連れ、家電の日立製作所(株)より電気冷蔵庫の部品を受注しました。スク-タ部品を初めとして、受注部品は多岐・多量にわたりました。

3)富士重工業(株)の四輪車転換に合わせて
 1958(昭和33)年にはスバル360の部品を受注・製作した。センタピラ-・リヤスカ-トなどが主なものであった。
スバル360

4)富士精密工業(株)(プリンス自動車)からの受注
 このスバル360が順調な伸びを示していた頃、当時の富士精密工業(株)(プリンス自動車工業(株)から日産自動車(株))からスカイラインのインストパネルやプリンスホ-マ、マイラ-、クリッパ-のトラック部品を受注しました。
スカイライン

5)本田技研(株)及びダイハツ工業(株)との取引
 昭和40年代には、本田技研(株)狭山工場が完成したのを機に、鈴鹿工場より移管になる軽トラックのボディ-部品を受注しました。その後、ダイハツ工業(株)前橋製作所(ダイハツ車体(株))より軽トラック部品を受注した。

6)プリンス自動車(株)と日産自動車(株)の合併と山川工業(株)との業務提携
 1966(昭和41)年5月、プリンス自動車工業(株)と日産自動車(株)の合併が実現した。1969(昭和44)年に、山川工業(株)(現 ユニプレス株式会社)と業務提携をし、日産自動車と新たな取引を開始することになった。

7)久保田鉄工(株)から農業機械部品の受注
 1969(昭和44)年に久保田鉄工株式会社(現 株式会社クボタ)の協力工場となり、バインダ-・コンバイン・田植機の部品を多量に受注しました。1975(昭和50)年には、筑波工場よりトラクタ-のロ-タリカバ-を受注した。その後農機具の売上が年ごとに伸び、1977(昭和52)年には、55億を達した。このときの売上比率は、久保田鉄工(株)39%、山川工業(株)30%、富士重工(株)28%であった。1983(昭和58)年には念願であった完成部品のグレンタンクを受注しました。初の完成部品とのことで、成功に向けた強行作業であった。
グレンタンク

8)念願の売上高100億の達成
 売上も着実に拡大を続け、1987(昭和62)年(会社設立50年)に83億円を達成、1989(平成元)年(会社設立52年)に102億円となった。その翌年の1990(平成2)年(会社設立53年)には、106億となり過去最高の売上高を記録した。これまでの自動車部品や農業機械部品に加え、産業機械部品の日立建機(株)、小松メック(株)、富士重工(株)大宮工場、三洋電機(株)、スバル梱包輸送(株)との取引が始まり、念願の100億の達成となった。
hitachi01.jpg

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