(2)大月工場建設と人員増加活動・人事交流 《人事・安全・環境》
1)受注増加・大月工場建設にともなう人員増加計画 1990(平成2)年~1993(平成5)年
1989(平成元)年は、大きいできごとがあった年であった。
1月17日に昭和天皇が崩御し、年号が昭和から平成に変わった。
アメリカでは、同月21日にブッシュ政権がスタートした。4月に消費税(3%)が施行され、6月には昭和の国民的歌手美空ひばりが死去した。11月には、ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一に向かった。12月29日日経平均株価が史上最高値の38915円87銭を記録した。これを最後に株価は下落へ転じ、バブル景気は崩壊へ向かっていった。
しかし、深井製作所は3工場体制(御厨工場、太田工場、新田工場)による産業機械部品の新規顧客の増加、さらに自動車部品の新規部品などの受注増にともない、現在と将来を担ってゆく人員を増加することになった。1.5倍にする人員計画であった。
つまり従業員300名を450名に増員するというものであった。ところが当時は、『会社動向』で記したようにバブル景気を背景に、製造業は3K業種(きつい、汚い、危険)ともいわれ若い人から敬遠されていたこともあり、大変な採用難で若い人を増加するためには特別に戦略を考える必要があった。そこで考えられたのが、どうすれば若い人が会社に入る気になるかを検討する『入りたい会社づくり委員会』の設置と、大学・高校に採用を働きかけるプロジェクトチーム『採用本部』の設置であった。
①『入りたい会社づくり委員会』の設置・活動 1990(平成2)年~1991(平成3)年
『入りたい会社づくり委員会』が設置されたのは1990(平成2)年5月のことであった。
委員会は、委員長を柿村常務(当時)がつとめ、委員は組織と関係なく各年代から2名ずつ計10名が選出された。これに労働組合委員長が加わった。活発な議論がされた。新ユニフォームの改善、社内レンタカー、個人が旅行するときの会社負担、Jリーグの年間ボックスシートの契約、車を購入する際の資金の貸付、それから新工場構想まで検討がされた。
これらはさらに検討がされ逐次実現することになった。ユニフォームは1991年から冬用・夏用さまざま考案され実現した。何種類かある中から個人個人の好みで選べる新しい考え方であった。冬用の上着は薄いベージュのものからグリーンを基調とするものに替わった。エピソードがある。冬用のブルゾンのユニフォームを着たままスーパー やホームセンターに入るとよく店員に間違えられた。ユニフォームは種類が多く管理も大変だった。その後種類も改善され現在に継続されている。
社内レンタカーは1992(平成4)年4月からスタートした。家族や友達仲間で利用できるように8人乗りのキャラバン”フウライボウ”、スポーツカータイプのSVXが選ばれた。後にフォレスター(アウトドアー向けSUV)も加わり3台となった。社員に好評で土日曜は常に予約が入っていた。
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旅行は宿泊すると会社がその費用を一部負担する制度ができた。
1991年に(社)日本プサッカーリーグとして設立されたJリーグは、これまでメジャープロスポーツといえばプロ野球やプロゴルフ、大相撲くらいしかなかったが、にわかにサッカー人気が沸騰した感があった。1993年には「Jリーグ」は流行語大賞になった。
Jリーグ設立当時は10チームであった。重要な得意先であった日産のJリーグ横浜マリノスの年間ボックスシートの利用は、水曜と土曜であったが好評でいつも抽選をおこなうほどであった。
車購入資金の貸付は、利息に便宜を図って車を買えるようにした。1991(平成3)年12月に制度化し、後には社員だけでなく、入社前の新入社員にも適用を広げ、現在でもこの制度はよく利用されている。
これらは会社にはこれまでいずれもなかった制度であったが、とりわけ画期的なものが会社PR誌の発行であった。誌名は『QUEST』(クエスト)(B5判)。1年に4回の発刊で決まった。
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会社のメンバー6名とデザイン業者の合同製作で案を双方で出し合いながら作っていった。発行部数は800部、仕上がると近在の大学生高校生にダイレクトメールした。『QUEST』は社員や職場紹介・製品説明・イベント・『入りたい会社づくり委員会』で行っていることなど、あらゆる誌面に工夫を凝らした雑誌であった。面白いと高校生の父兄には好評で、他社にも評判となった。『入りたい会社づくり委員会』の活動の様子は、1991年6月13日(木)PM6:10からNHK「首都圏イブニングネットワーク」で放映された。
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②採用本部の設置・活動 1991(平成3)年~1993(平成5)年
採用本部は直接大学、高校に採用を働きかけるプロジェクトチームであった。これまで新卒採用は総務担当が1~2名があたっていたが、この採用本部は役員を含め5名体制の専属チームであった。
1991(平成3)年~93(平成5)年9月の期間活動した。3年間で150名の新卒採用の使命を帯びていた。学校訪問には若者受けを考え日産車のシルビアを利用した。前述した『QUEST』も活用した。
1991年の新入社員は1名であった。『入りたい会社づくり委員会』や、この採用本部の活動で、1992(平成4)年の新卒者は31名、’93年は39名、’94年は20名となった。
目標の150名には及ばなかったものの成果は歴然としていた。
2)大月工場建設後の人事交流 1991(平成3)年~2008(平成20)年
新卒者増加の採用活動を活発におこなっている一方、大月工場建設準備や受注増加にともない管理スタッフ人員が不足してきたため人材を外部に求めることになった。
大月工場建設から稼働までの責任者として、1991(平成3)年2月1日、元本田技研工業出身の君島行男氏が大月工場所長(専務取締役)に就任した。以降、今日に至る約20年間にわたり過去に例がないほど外部の多数の方々が深井製作所の発展に力を注いでいただいた。
富士重工業、日産自動車栃木工場、日産ディーゼル、三洋電機、足利銀行など顧客各社の方々が、工場建設、プレス組立製造部門、プレス保全部門、生産管理改善およびFPS、金型工機・設備治具部門、技術開発、品質保証部門、経営財務部門で、各部門の強化・充実・発展あるいは後継者育成等に尽力され、深井製作所の基盤づくりと発展のために足跡を残され、あるいはまた今日も活躍されております。