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(5)バブル崩壊による売上高減とRE計画 【1991(平成3)年~1999(平成11)年 】 《会社動向》

1)得意先からの出向者受け入れ
 スタッフ人員も大月工場建設準備と事業拡大により不足気味となり、富士重工業より1991(平成3)年から1993(平成5)年の3年間に5名の出向者を迎え入れた。その後、現在に至るまで交替で出向して頂き、深井製作所の中枢として活躍頂いている。

2)売上高の激減
 高度成長のパブル崩壊が深井製作所へ現実的なものになったのは、1991(平成3)年11月、スクラップ価格下落(6~7円/㎏)からであった。
 この年の9月は、富士重工業のレガシィ、日産自動車のセドリック・グロリアは増産で昼休みに稼働する状況であった。経済企画庁も同じ9月、1986(昭和61)年12月からの景気拡大は58カ月となりいざなぎ景気を超えたと発表したが、その2カ月後であった。
 バブル崩壊は1992(平成3)年2月、富士重工業のレガシィ、レオーネの減産となった。日産自動車もこの年販売が低調となり、10、11月休みを増やし2、3月に出勤日を振り替える休出が行われた。
このように厳しさが増していく中、スバル梱包輸送に納入していたクレートが環境問題でリターン使用(1992年2月開始)となり総売上高の7%以上までになっていたが激減することになった。またレガシィの2代目フルモデルチェンジが1993(平成4)年に行われ、日米貿易摩擦改善で自動車部品の輸出規制が叫ばれる中、SIA生産部品は現地調達化となり当社から米国へ部品を送る必要がなくなってしまった。
 日産自動車においても生産分担変更により栃木工場で生産していたパルサーが1995(平成7)年3月九州工場に移管となり、当社のラインが勝山プレス工業(ユニプレス九州の旧名)へ移ることになった。
このような背景の中、全社一丸となって別表『新規取引一覧』に見られるように拡販につとめたが、売上の減った自動車部品の売上高確保はできず、別表『売上高推移』のとおり売上高は減少していった。
深井製作所50有余年の歴史の中、最大のピンチを迎えることになった。

3)RE計画と売上高70億円で利益のでる体質作り
 大月工場は1993(平成5)年の8月操業開始となった。土地の広さは約25万㎡(75,760坪)、工場建屋は116m×160m=18,560㎡(5,630坪)のスタートとなった。山の中腹にできた工場のため稼働当初は朝会社へ行くとカブト虫が沢山とれ、秋になればキノコも採れる自然環境豊かな工場であった。
しかしながら、大月工場への建設資金は銀行からの借入金であった。膨大な建設資金は借入金利息となり会社の大きな負担となった。
 すでに記したように、収入面ではバブル崩壊にともなう自動車メーカーの販売台数減、そして富士重工業・SIAの部品現地調達化による売上高減などが重なり、会社収支の両面で大変厳しい状況を迎えた。
 こうした会社状況を打開すべく取り組んだ経営計画が第1次合理化計画RE(RE-ENGINEERING)計画である。この計画は別表「RE計画の概要」のとおり、「RE計画PARTⅠ~Ⅴ」までから成り、5.5カ年の中長期経営計画となって展開された。基本的狙いと目標は「売上高70億円で利益のでる会社作り」で、「損失を阻止する」活動でもあり、賃金カットや雇用調整など大きな犠牲を払った取組みであった。
 このRE計画への取組みの成功がその後の中期経営計画に生かされ、また会社全員の力となったことは間違いのない事実である。
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4)大月工場への統合と本社移転
 RE計画の施策の一つとして工場の統廃合があり三つの大きな目的があった。一つ目は工場を空け売却し借入金を減らすこと、二つ目は工場と工場間を部品が移動していて余計な運賃を減らすことであった。三つ目として管理者が組織のうえで各工場を兼務し移動ロスが大きく時間のムダが発生していたことである。
 このような状況を改善すべく第1段として太田工場と新田工場を、大月工場への移管で空いた御厨本社工場へ1994年(平成6年)から翌年にかけ統合した。御厨本社工場の組立職場東側へ太田工場から移されたトラクターのロータリーカバーなどのクボタ部品が、西側に新田工場からきた米国オギワラ向け部品(OAC)などが職場レイアウトされた。
 この頃の御厨本社工場のプレス職場にはTRF1600t、600t、タンデムA、B、Cの各ライン、そしてB6ブランキング、PRG300tがまだ稼働し、加工部品を主に大月工場へ送っていた。
世相としては55年体制が崩れ1994年には羽田内閣(新生党)、村山内閣(日本社会党)がスタートしていた。
 借入金圧縮のため御厨本社工場の買い手先を探していた折、新田工場が御厨本社工場へ統合して数カ月後のこと、道路真向かいにあったアキレスから御厨本社工場を譲り受けたいという話しから始まった。話しはトントン拍子で進み、1966(平成8)年6月、翌年3月までに明け渡すことで決まった。1993(平成5年)年夏休みの初回大月移管は組立職場の移設であったが、今回の移管は御厨本社工場の閉鎖で、すでに述べた太田、新田工場の組立職場再移設、プレス職場のトランスフアープレス等の大型機械、そして工機工場の各機械の移設であった。日程的に大変厳しく移管プロジェクトが組まれアキレスとの定期的打合せを行いながら無事終了することができた。
 1997(平成9)年1月1日御厨工場から大月工場へ本社を移転した。
 1977(昭和52)年非量産部品の専門工場としてハンドワーク工業が分社し別れてから20年ぶりに昔の仲間が一つの工場のもとで再度働くことになった。
大月工場全景

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