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(4)受注拡大とさらなる飛躍に向け大月工場の建設 【1989(平成元)年月~】 《会社動向》

1)受注品立上げラッシュ
 将来の飛躍のための3工場制は昭和天皇が崩御した1989年にスタートし、順調な工場稼働となった。農業機械部品としての太田工場、そして産業用機械部品をメインにした新田工場、それぞれ稼働まもなく職場スペースがなくなるほどになっていた。
 この頃、主力工場である御厨本社工場では、組立工場の西側一角を占めていたクボタの農業機械部品が太田工場へ移り、組立職場が空く方向にあった。当社としては当然自動車部品の積極的受注活動を展開し、富士重工業から新型車としてアルシオーネ、インプレッサを、山川工業からはこの時代を一世風靡した日産自動車のインフィニティ(Q45)を受注した。同時にこの時代ヴィヴィオ、セドリック、アトラス、マーチなど大型フルモデルチェンジの受注、また移管としての受注も数多くあり立上げラッシュとなった。
 なお1990(平成2)年頃の量産立上げまでの開発期間は普通乗用車で23~24カ月、軽自動車で20カ月ぐらいであった。製品図面はお客様よりまだ支給して頂いており、CAD/CAMの研修がお客様のところで開催されようとしていた。
アルシオーネ


2)大月工場の建設と稼働
 消費税3%が導入された1989(平成元)年から、軽自動車の規格改正(排気量660cc以下)が行われた1990(平成2)年にかけ御厨本社工場では、農業機械部品の太田工場移管にともない空き職場へ次々と新規受注やフルモデルチェンジによるラインが設置された。組立職場スペースは徐々になくなり、組立北側にあった完成品置き場も次々に組立職場へ変わっていった。
 組立職場スペースはそれだけでは足りず、クレート生産のため下屋を増築したりSIAへの出荷対応で御厨本社工場南へプレハブ倉庫を設置したりした。
 またこの頃、朝倉(福居町)倉庫や太田工場が植木野倉庫も借りていた。一方、組立職場が増えれば従業員も増加し、増える従業員の駐車場対策として御厨本社工場敷地南へ駐車場を拡張工事、そして大月への土地取得意思決定後であるが、1991(平成3)年7月には2回目となる駐車場南側のサービス金型の処分も行った。休憩所も足りず、昼休みには備品類の置いてあった食堂2階も開放するに至った。
 このような背景の中、御厨本社工場の2階化の検討、そして場所の選定では他の工業団地の紹介もあったが、希望する敷地面積に足りず1991(平成3)年4月に最終的意志決定として足利市大月町の鉱山跡地を足利市の仲介で取得することになった。
 大月工場建設から稼働までの責任者は君島所長が行った。君島専務取締役所長は、本田技研工業出身で荻原鉄工所より招聘し、1991(平成3)年大月工場用地取得と同時に就任した。君島所長の指導は世間で話題になるほどで毎朝7時からの職制会議と5Sによる即時徹底改善であった。
また、君島所長の大月工場建設にあたってのコンセプトは無人化であり、タンデムプレスのロボット化、組立ラインの直線コンベア化が1993年夏休みに完成し、同年10月大月工場落成式を迎えることとなった。
大月工場(建設中)
プレス500トンロボットライン

3)採用難にともなう苦心
 1990(平成2)年前半、仕事は確保したが作業者を手当するのが好景気で大変な時代だった。1992(平成4)年3月、当時定例会となっていた早朝職制会議で総務課長から有効求人倍率の話しがあり、①栃木県1.9倍、②足利2.03倍、③技能職6.79倍という状況であった。
また若者には当時流行語となっていた3K(きつい、汚い、危険)を嫌い製造の仕事は敬遠されがちであった。
 当然ながら中途採用・新卒者採用は難しく社内外注に依存する体質になっていった。協和パーツ(ジャブラスの旧名)、ヤマトなど南米日系人の人たちに自然と頼る結果となり、職場には日本語とポルトガル語で書かれた看板等が掲示されていた。
 こうした中、定期採用で正規従業員を確保しようと懸命な努力もした。まずは社内報『QUEST』(クエスト)の発行、そして「入りたい会社づくり委員会」、1991年には長年親しんだグレーの作業服からグリーンを基調とした新ユニフォームへと変わった。
旧ユニフォーム
新ユニフォーム

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