(10)谷から峰へ、そして新たなる飛躍へ 【昭和60年~63年】
昭和55年に始まった景気後退(不況)は、57年を底とする長期不況となり、59年に至ってようやくその回復がみられ始め、60年にはなんとか期待が寄せられるような状況になった。
昭和60年、深井製作所は品質、リーダーシップ、目的意識、気迫、根性等の面に多分の不満を抱えていたのが実状であった。業績は谷底にあった。
昭和60年1月、品質向上・生産性向上を実現していくために全社活動として「5S活動」が大々的に展開された。富士重工業のR計画に基づいて3F活動がスタートした。R計画は当初の活動期間が60年9月に満了したので、実績の総括が行われたが、3F活動は再スタートした(49期、61年10月~62年9月)。
人事管理制度については、昭和57年に制定されて3年余り経過したが、その間にいろいろな問題が発生した。そのひとつには、”飛び級”があり昇格時に昇給幅が大きくなりすぎ、運用が困難になった、というような点があった。
そこで、60年11月、外部の専門家の協力を得、61年4月「職能資格等級制度」に改めた。この制度は「職能要件書」を中核に、職種別・等級別に、必要な能力のレベルと内容を示したもので、9月に完成した。その後の人事管理の礎となった。この「職能資格制度」関連のものを含めて、61年には、規程類の全般的な見直しと新規制定が精力的に行われた。これらの規程類は「規程集」としてまとめられ、全従業員に配布され、今日まで活用され続けている。
昭和62年、急激な円高があったが、幸いに売上高は前年並みで、労働生産性の順調な向上に伴い、収益面はかえって大幅増になり、創業以来最高の収益を挙げることができた(第49期純利益2億7,000万円)。このような業績の好転は、積年の企業体質強化活動と、地道な目標達成活動などによりもたらされたものである。
昭和63年3月、福利厚生施設として「三喜荘」を建設(名称は社是の「三高三喜」に由来する)。
昭和63年10月1日、深井製作所は50周年を迎えることができた。そして、昭和63年11月、太田工場が稼働。翌平成元年4月、新田工場が稼働した。