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(9)合理化・自動化の推進と体質改善への苦闘【昭和56年~59年】

 アメリカ経済は2度にわたる石油危機による石油価格の高騰で不況へ落ち込んだ。燃費志向のたかまりから、小型車へ集中した。小型車市場への対応が整っていなかったアメリカメーカーは苦境に立たされ、好調を続ける日本車への風当たりが強まった。対米輸出自主規制の始まりであった。日本経済も石油危機による深刻な不況へひきずり込まれ、景気は冷えた。
 昭和56年以降厳しい経済環境の中で、社内の合理化を一層強化するために、「新生産方式」を軸に新生産方式プロジェクトチームによる活動を開始した。この新生産方式プロジェクトチームは、圧造段取時間短縮チーム、組立工場改善チーム、間接部門合理化プロジェクトチーム、材料合理化プロジェクトチームの4つのチームに分かれて改善活動を進めた。
 さらにこれらの活動を補完するものとして、小集団活動や定位置定量作戦が展開された。また、石油危機を契機に省エネルギー活動も組織的に開始した(年間10%節減を3年間続ける)。
 昭和56年12月11日、先代社長深井義信が逝去。現社長の深井孟が代表取締役社長に就任する。
 技術革新や経済活動の高度化は、人事管理制度にも影響を及ぼし、年功序列型人事管理から能力主義的人事管理へ転換するようになった。深井製作所は、55年から能力主義を内容とする新人事管理制度確立への動きが始まり、57年になって、「作業等級規定」、「賃金規定」、「資格規定」など関連する規定が制定された。
 昭和57年10月、富士重工業の「R計画」がスタートした。これは協力工場21社を対象にした企業体力強化運動であった。この計画を深井製作所では、「3F活動」の名称のもとに展開していった(57年10月~60年9月)。3Fは、”富士重工業とともに深井の将来を切り開いて行こう”というものであった。産業経済界はまだ不況の中にあった。
 昭和59年4月から、富士重工業は「R計画」の主柱の一つとして品質改善活動、「Q-UP作戦」を展開してきた。深井製作所では、この「Q-UP作戦」を「3F活動」のなかに位置づけ、第46下期(59年4月~9月)の活動計画で取り組んだ。このとき初めて部として「品質保証部」を新設し、品質保証体制を強化した。さらに「技術管理課」を新設し、開発体制を補強した。
 昭和57年4月、スポット溶接ロボット3台(川崎重工製、ユニメート)を組立工場に導入した。これが本格ロボット導入のはしりであった。同年、「金型売上高増大計画」(5カ年計画)により、NC立中ぐり盤及び倣いフライス盤各1台を導入した。自動加工による効率化と、加工能力の増大を狙った措置であった。プレスでは、59年1月に1600トン トランスファープレスが導入された。1600トン トランスファープレスでは、レオーネの新型車62F(59年7月発売)のディスクホイールを加工した。
 深井製作所はこれらにより生産の自動化の道を進めていった。

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