(3)スクーターの金型・部品製造で飛躍 【昭和26年~32年】
より高度な輸送機関の需要を見越した富士産業㈱は、終戦直後からスクーター研究・試作を始めていた。そして昭和22年から本格的生産に移り、「ラビット」の愛称で売り出し、爆発的な人気を博した。
昭和26年になり、富士工業㈱(富士産業㈱の後身)からラビットスクーターのマフラー、プロテクター等の仕事を受けた。金型製作に始まり、プレス加工から溶接・組立に至る一貫作業で相当な仕事量であった。これらの仕事をこなすのに、シャーリング・段付ローラー・バフ研磨機などのほか、70トンおよび50トンのパワープレスが購入・設置され、人員も増員された。これらの仕事を通じて、金型製作および板金加工に関する技術力が急速にアップし、また、加工技術についての視野が広まった。品質・納期面でも力をつけ、富士工業㈱における深井の評価も、急速に上昇していった。
昭和28年には月産2000台にもなり、工場は狭くなり機械は不足してきた。昭和27年以降にはスクーターの好調に支えられ経営内容は好転した。27年には、宇都宮工場が閉鎖された。
昭和29年には資本金を増資し、敷地の拡大と工場の増築、ならびに機械設備の増強が行われた。スクーターの生産量は年を追って上昇し、33年には月産4,000台を越えるに至った。売上高、従業員は増え続けた。